珠子の匂い
「ただいま」
孝が学校から帰ってきた。
今朝、珠子が庭で揚羽蝶に追われて倒れたところを助けて、後のことを母の月美に任せ、運動会のクラス対抗リレーの練習に出かけたのだった。
練習中も珠子のことが気になって、何度もバトンを渡し損ねたため、クラスメイトから体調が悪いのかと心配された。
これは言い訳になると思い
「夏風邪をひいたみたい」
と嘘をついたら、無理をしないでもう帰ったほうがいいよと、みんなが言ってくれたので早めにあがらせてもらった。
ダッシュで帰宅すると、朝寝坊した柏が欠伸をしながら
「月美は珠子を連れて、母さんのところにいるよ」
と言った。
孝は部屋を出て、隣のインターホンを押した。
「タカシ君、入って。月美さんもこっちにいるわよ」
操に言われてあがると、奥から珠子の元気な声が聞こえた。
「タマコ、具合は良くなったか?」
倒れて震えていた時の珠子の様子が頭から離れなかった孝は、彼女の様子を観察するように見つめた。
「タカシ、おかえり」
珠子が走り寄り、孝に抱きついた。
「た、ただいま」
抱きつかれて、ちょっと照れながら言う。
そして孝は、腰を屈めて珠子の首筋に自分の鼻を近づけると、すうーっと息を吸い込んで彼女の匂いを嗅いだ。
「タカシ、なあに」
今度は珠子が照れた。
「蝶が寄ってくるって、タマコはいい匂いがするのかなって思ったから」
「いい匂いがした?」
「うーん。よくわからない」
「なーんだ」
残念そうな珠子に孝が聞いた。
「ところで、もう落ち着いたのか」
「うん。ミサオが蝶々と話をしてくれたから」
「えっ?どういうこと?」
孝はキョトンとする。
「タカシ君、こっちに来て座って。姫も」
操が孝と珠子をソファーに座らせた。
「おばあちゃん、蝶と話をしたの?」
孝が操を見る。
操は麦茶をローテーブルに置きながら話した。
「あの揚羽蝶はね、姫にお礼を伝えに来たの」
「お礼?」
孝の頭には、さっきから疑問符が浮かび続けていた。
「タカシ、あのね、きらりちゃんの話をしたことあったよね」
と言う珠子の話もピンとこなかった。
「きらりちゃん?」
「私が生まれた時、同じ病院で出産中に死んでしまったの。赤ちゃんもお母さんも」
「ああ、前に、タマコが狙われたことと関係のある赤ちゃんの名前なのか」
「そう。あの時、無事に生まれていれば私と同い年の女の子」
「えっ、あの揚羽蝶たちは、そのきらりちゃんと…」
「きらりちゃんのお母さんなんだって。ミサオが言ってた」
珠子の話を聞いて、孝は操を見た。そして操は大きく頷いた。
「ええと…、その亡くなった二人が揚羽蝶に転生したってことなの?」
孝が驚く。
「生まれ変わったのか、乗り移ったのかは私にはわからない。でも確かに姫に感謝と謝罪を伝えたがっていたのが、はっきりわかったわ」
操は月美が作った炒飯をテーブルに置きながら言った。
「それから、姫とタカシ君はずっと仲良しでいられるって」
それを聞いて、孝は顔を紅らめながら珠子を見た。
今朝の青ざめた顔をしていたのが嘘のように満面の笑みで、うんうんと彼女が頷いている。
そして、目の前の炒飯を見て
「美味しそう!タカシ食べよう」
珠子はスプーンを手にした。
いつもの彼女に戻ってよかった、と思いながら孝もスプーンを持った。そして、さっき嗅いだ珠子の匂いが自分でも驚くぐらい心が安らいだことに、孝は人知れずドキドキして顔を紅くした。




