揚羽蝶たちのメッセージ
月美に付き添われて珠子は操の部屋に戻ってきた。彼女が庭に出るのが怖いと言うので二人は玄関から玄関へと移動した。
「姫……」
玄関の扉を開けた操が、生気のない珠子の顔を見て絶句する。
「姫、どうしたの」
「お義母さん、珠子ちゃんが大きな揚羽蝶に追いかけられて庭で倒れたんです」
「とにかくあがって」
操は、珠子と月美をキッチンの食卓に着かせた。
水出し緑茶を出しながら
「姫、何があったのか話せる?」
珠子を見つめた。珠子も見つめ返す。
そして、操も椅子に座ったところで珠子が口を開いた。
「あのね、104号室の花壇を見に行ったら南の島にありそうな、いい匂いのお花が咲いてて匂いを嗅ごうとしたの。そしたら、急に真っ黒で大きな揚羽蝶が私の傍に寄ってきて、逃げても逃げてもついてくるの。それで私、尻もちをついて腰が抜けちゃったみたいになって、怖くて怖くて」
「それで、どうしたの」
「タカシが助けてくれた。庭に出て来てくれて、蝶々を追い払ってくれて。それでも、しつこく私の傍に飛んで来たの。」
「可哀想に。怖かったね。私が一緒に行けばよかった」
「一瞬近づいただけだったら、きゃって言うだけで済んだんだけど、今日の蝶々は凄くしつこくて…」
珠子が震えだしたので、操は急いで彼女のもとへ行き肩を擦った。そして、珠子を抱き上げ、そこに座った操は、向かい合うように彼女を自分の膝の上に座らせた。
「しかもね、おんなじ黒くて大きいのがもう一ついて、二つで私を追いかけて来たの」
「二頭も。何か姫に言いたいことがあったのかしら」
「私に言ったって、何もできないよ!」
珠子は恐怖が怒りに変わったのか、突然声が大きくなった。
操は、珠子を抱っこしたまま立ち上がり、庭に面した窓へ行った。
「ミサオ、お庭は怖いよ」
珠子が体を震わせたが
「大丈夫。姫は目をつぶっていて」
と、言いながら操は窓の外を眺めた。後ろからついてきた月美も窓を見つめる。
「お義母さん、窓に二つ止まっています」
そう言われて操は体の向きを少し変えて窓を見た。大きな二対の羽をピタリと閉じて二頭の揚羽蝶が止まっていた。
それをじっと見つめた操は
「姫、目をぎゅっとつぶって私にしっかり抱きついていて」
そう言いながら、掃き出し窓から庭に出た。月美も後を追う。
窓に止まっていた揚羽蝶が飛び、操たちの周りを優雅に舞った。
綺麗…蝶が苦手ではない月美はうっとりと、その舞飛ぶ姿に見とれた。
操が視線を向けた先に二頭の揚羽蝶はひらりと行くとゆらりとふわりと、まるでその場でホバリングをするように留まっていた。少しの間、操と揚羽蝶は見つめ合っているように月美には見えた。
そして、二頭は背を向けている珠子の髪に一瞬止まると、ふわりと飛び上がりどこかへと旅立った。
「姫、目を開けても大丈夫よ」
操が珠子の耳元で囁いた。
「蝶々いないの?」
「もういない」
「ホント?」
「珠子ちゃん、二つともどこかに行っちゃったよ」
月美も言った。
珠子は芝生の上に下ろされて立つと、ゆっくりと体を回しながら恐る恐る周りを見た。
夏の強い陽射しに照らされたいつもの芝生の庭が広がっているだけで、揚羽蝶の姿は見当たらなかった。
「そのうち、また来たりしない?」
「あの人たちは、もう来ないから大丈夫よ」
「あの人たち?」
「とにかく、暑いから部屋に戻りましょう」
三人は涼しい部屋に戻り、珠子は足の裏を拭いてもらい、ああ涼しいと言いながらソファーにドサッと腰を下ろした。
「ミサオ、なんであんなにしつこかった蝶々がもう来ないってわかるの?それに、あれは人なんかじゃないよ」
その場凌ぎの嘘は言わせないよ、と言わんばかりの顔で珠子が聞く。
「あの揚羽蝶は姫にお礼を伝えに来たの」
操は真面目な顔で答えた。
「お礼って何の?」
「姫も月美さんも、大島かの子という人を覚えている?」
操が聞くと二人とも大きく頷いた。
大島かの子は珠子に対して一方的に逆恨みをしていた人だ。彼女の心疾患のあった嫁が出産時に体調の急変によって母子共に死亡した。そして同時刻、同じ病院でこの世に誕生したのが珠子だった。
「彼女の亡くなったお嫁さんとお孫さんがね」
「沙理奈さんと、きらりちゃん」
即座に珠子が言う。
「そう、彼女たちだったの。あの揚羽蝶」
操の言葉に
「ええっ!」
珠子と月美が大きな声をあげた。
「転生したのか、想いが乗り移ったのかは、私にはわからないけど、その二人が姫にお礼を伝えに来たの。やっと出会えたって喜んでいたわ」
「それなら、私にもわかるはずだよね」
珠子は首を傾げた。
「あの時、姫は彼女たちのメッセージを受け取る余裕なんてなかったでしょう」
「うん。あの姿を見た途端、パニックになっちゃって…。だけど、よりによって揚羽蝶にならなくても…」
もしトンボだったら、直接メッセージを受け取ったのにと珠子は思った。
「それで、沙理奈さんときらりちゃんは珠子ちゃんに何を伝えたんですか?」
月美が興味深げに聞いた。
「まず、お礼を言ってたわ。きらりちゃんの気持ちを、かの子さんに伝えてくれたことを感謝してた。それと、かの子さんが姫を危険な目に遭わせて申し訳ないって。そして…」
「そして?」
「さっき、姫が倒れ込んだ時に助けた男の子と末永く幸せに暮らせるって」
操は珠子のおでこをツンツンと突きながら言った。
月美は、うわぉーっと声をあげた。
珠子は嬉しそうに恥ずかしそうに俯いた。