孝の苦手なもの
「姫、忘れ物はない?」
「ええと、リュックの中は、タオルハンカチとポケットティッシュでしょう。それから水筒と塩入りの飴。パスは首にぶら下げた」
珠子が確認する。
「姫、シロクマリュックは背中熱くないの?」
「ちょっとだけね。でも、これお気に入りなんだもん」
今日の珠子は、昨日と違って、とてもカジュアルだ。ピンクのTシャツにデニムのショートパンツ、青いスニーカーを履き麦わら帽子を被ると、玄関の外に出た。
操も外に出ると、丁度、孝が玄関の扉を開けて出てきた。
「おばあちゃん、タマコ、おはよう」
「おはよう、タカシ君。今日も姫を頼みます」
操が言うと、孝はしっかり頷いた。
「タカシ、忘れ物はない?」
珠子が先ほど操から言われたのと同じことを孝に聞いた。
「うん。大丈夫。今日のタマコ、可愛いよ」
孝に褒められて、珠子がふにゃふにゃになる。
「大丈夫か、タマコ。行くよ」
相変わらず嬉しそうにふにゃりとなっている珠子の手を取り
「いってきます」
操に向けて言った。
「いってらっしゃい」
珠子の様子がおかしくて、笑いながら操は手を振った。
「さて、勇気を出して防草シートを外すか」
と言いながら、操はいくつかの道具と軍手を持って庭へ向かった。
『ハイツ一ツ谷』の建物の南には芝生の庭が広がっている。
一階の入居者は各部屋の掃き出し窓からこの庭に出ることができ、自分の部屋の前のスペースには本人の責任で畑や花壇を作ることを許可していた。
「暑いけど、やりますか」
操は軍手をはめて、104号室の前を覆っていた防草シートを工具を使いながら剥がしていった。一坪ほどの大きさだが、あまり器用でない操一人で取り除くのは、そこそこ手間取った。シートの下から周囲をレンガブロックで囲った土の地面が現れた。
操はしゃがんで土に触ってみる。想像より柔らかくふかふかしていた。
防草シートを小さくたたみ、固定用杭と共にゴミ袋に入れると、104号室の掃き出し窓をコツコツと叩いた。
「はい」
返事の後に窓が開いた。最近この部屋に入居者した杉山直子が顔を出した。
「おはようございます、杉山さん」
「大家さん、おはようございます。こんな格好ですみません」
サッカー地のパジャマ姿の杉山が恥ずかしそうに言った。
「気にしないで。私も用事がない時はパジャマで過ごしたりします。それで、前の入居者さんが手入れをしていた花壇なんですが、こんな感じです。土を触ってみたんですけど、結構ふかふかして植物に良さそうですよ」
杉山に花壇を見てもらい、どうですかと操が聞いた。
「いいですね。使わせてもらいます。前の住まいでも趣味でガーデニングをしていたんです」
杉山直子は笑顔で答えた。
「この花壇内でなら、ご自由にどうぞ。それじゃ」
操はお辞儀をしてゴミ袋と工具を持って自分の部屋へ帰った。
『フラワ・ランド』に着いた珠子と孝は、首にぶら下げていたフリーパスを機械に読み取らせるとゲートのバーが開いてパーク内に入場した。
「やっぱり混んでいるな」
開園と同時に入ったのだが想像以上の人出の多さだった。
「タカシ、お腹がヒューっとなるのに乗りたい」
珠子が周りをキョロキョロ見ながら言う。
「タマコが乗れそうなマシンか」
「私、スピードのある乗り物平気だよ」
珠子がはしゃぐ。
「身長がクリアできればいいんだけど」
ぼそっと孝は言った。
「身長?」
「乗り物によっては、身長制限があるんだ。タマコは何センチあるのかな」
「私ね幼稚園で測ったら、105センチだった」
「じゃあ結構乗れるかな」
「お腹がヒューってなるやつ!」
「ただ、タマコが好きそうな乗り物はかなり並んでるから、待たないといけないよ。いいか?」
「うん。並んで待つ」
珠子は元気に返事をする。
孝は、そうかと頷いたが、正直、絶叫マシンが苦手だ。珠子に格好悪いところを見せたくないので平気な振りをしているが、本当は心臓がバクバクしていた。自分が操作できるものなら大丈夫なのだが、機械任せ的なものが怖いのだ。
そうこうしてるうちに、珠子たちが乗れる番になり二人は座席に着くと安全バーを倒しロックされたのを確認した。
「うわー、楽しみ!」
珠子の声を聞きながら、孝はすでに歯を食いしばっていた。
そしてローラーコースターは電子音の合図と共にサーっと動き出した。
それは最初は静かにゆっくり進んでいったが、突然角度を変えスピードが速くなり、そして今度は上へ上へと向かって行く。
珠子はアハハと口を大きく開けて笑っている。
孝はコースターが一番高いところに到着した後の動きが怖くて顔を引きつらせる。彼の恐怖をよそに、コースターは一気に落ちて行った。
「うわあぁ」
珠子が興奮して大声をあげた。
周りからも楽しそうな奇声が聞こえる。孝は声が出せず目をギュッとつぶった。
そして絶叫マシンは終点に着いた。安全バーが上がり、みんなコースターから降りている。
「タカシ、面白かったね」
珠子がご機嫌な声で言う。が、返事がない。
「タカシ?」
珠子は孝を見つめる。
「タカシ、気分が悪い?顔色が良くないけど」
「大丈夫」
孝はそう言うのが精一杯だった。
「私、大きな声を出し過ぎて疲れたからこのベンチに座りたい」
珠子は近くのベンチで、孝と一緒に座った。
「喉が渇いた。水筒に冷たい水が入ってるの。一緒に飲もう」
と言って、シロクマリュックから水筒を取り出し、キャップを開けるとストローが飛び出して、珠子はチューっと水を吸った。
そして、その水筒を差し出すと
「タカシ、間接キッス」
と言って、孝に水を飲ませた。
「タマコ……ありがとう」
受け取った冷たい水を飲み、ほっとひと息吐いた。
「タマコ、おれさ…」
「うん。休んだら、今度はお馬さんが回るやつに乗りたい」
そう言う珠子に孝は心から伝えた。
「タマコは大人だ」