操のティータイム
今朝も操はアパートの通路を掃いていた。
さすがに十二月なると空気の冷たさに、手にした箒の柄も凍結しているかのようだ。
明日から古くなった手袋をして掃除をすることにしようと操は思った。
「おはようございます」
声がする方を向くと、207号室の久我晶が階段を下りて来るところだった。
晶は彼の部屋の真下107号室に住んでいる久我愛子の息子だ。母一人子一人で、傍で親を見守りたいが同居は望まなかったので、このアパートの上下で暮らしている。
「久我さん、おはようございます」
箒の動きを止めて操は晶に会釈をした。
「神波さん、日中、私の母と顔を合わせたり、話をすることあります?」
「うーん、あまりお見かけすることは無いわね。どうされました?」
「いや、なんでもないです。いってきます」
「いってらっしゃい」
晶は足早に出かけていった。
午前十時を回った頃、操のところに、珠子がおみくじを枝に結んでいるシーンが表紙の正月号のフリーペーパーを編集の津田健一が届けてくれた。
「完成したのでお届けに来ました。今回もとっても良い出来ですよ」
津田が珠子を褒めた。
「なんか恥ずかしいです」
珠子がもじもじしていると
「姫はどんなシチュエーションも絵になるわね」
操が親バカならぬ祖母バカ全開で褒めた。
「前回より多めに持ってきたので、多くの方に配っても足りると思います」
「ありがとうございます。こんなにいただいちゃって大丈夫ですか」
操が恐縮する。
「大丈夫です。前回のが凄く反響あって、スポンサーさんがかなり増えたんです。今回、取材ページも広告ページも多くなって、発行部数が今までのほぼ倍になったんです」
津田が得意気に言った。
「それは凄いですね」
「次回は二月の終わりか三月の初めあたりの撮影を予定してますのでよろしくお願いします。それじゃまたね、珠子ちゃん。お邪魔しました」
「こちらこそよろしくお願いします」
操が津田を見送るために外へ出ると、ちょうど107号室の久我愛子が扉に鍵をかけているところだった。
「久我さん、こんにちは。お出かけですか」
操が声をかけると、
「ええ、たまには外でお茶でもしようかなと思って。大家さん、この後予定がなければ一緒にいかがですか」
愛子が誘ってきた。
「どなたかとご一緒じゃないんですか」
「いえ、誰も。もし良ければ話し相手になってくださいな」
操は今朝の久我晶の話が気になっていたので頷いた。
「ええ、お供します。ちょこっと支度をするので少しお待ちくださいね」
操は部屋に戻ると鴻に電話を入れた。
──もしもし、お義母さんどうしました?
「コウちゃん、時間ある?」
──ええ、今日は部屋にいます
「私ちょっと出かけるので姫を見ていてくれない」
──ああ、もちろん。私がそちらに行った方がいいですか?
「それはどちらでも、でも姫と二人きりで大丈夫かな?」
──最近、あの子、こちらを見るときに加減をしているみたいで目が合っても、私、平常心を保てそうなんです。ゆっくりお出かけしてください
「ありがとう。よろしく」
操は電話を切ると
「姫、ばあばはこれから出かけるので留守番お願いね。コウちゃんが見ていてくれるから」
「はい。大丈夫だよ。ママとお留守番してます」
「じゃあ、いってきます」
ダウンコートを羽織って部屋を出た。
出たところで鴻がやって来た。
「お義母さん、いってらっしゃい」
「いってきます。頼んだね。久我さんお待たせしました。行きましょう」
二人はフルーツタルトが有名な喫茶店で向かい合っていた。
久我愛子は操と同い年の60歳で、マダム向けのブティックに勤めているとアパートの入居手続きの際に聞いていた。身長は高くないがとてもスタイルが良く新作の服を着こなし華やかながら落ち着いた雰囲気はお店で重宝されているらしかった。こうやって近くにいると彼女は自分より絶対若く見られるだろうなと操は思った。
「久我さんはブティックのお勤め長いんですか」
操は唐突だなと考えながらも聞いた。
「あ、ええ、十五年程ですかね。でも、もう辞めました。今は無職です。でも家賃滞納なんてしませんから心配しないでください」
「そんなことを心配してませんよ。久我さんスタイル良いし美人だから同い年に見えないなと思って」
「やめてください。お店ではシーズン先取りで寒い時に春物のペラペラなブラウスを仕方なく着たりしてたけど、今は腹巻きにババシャツと分厚い靴下と貼るカイロが必需品です」
「私と同じで安心した」
お互い笑い合った。ちょうど紅茶と柿のタルトが運ばれてきた。
「この紅茶良い香りね」
操がティーカップを鼻に近づけて香りを堪能した。
「私、最近鼻がばかになったのか匂いがわからないの」
愛子が寂しそうな顔をした。
「鼻が詰まっているとか?」
「それは無いんだけど」
愛子はスティックシュガーを紅茶にざーっと落としてスプーンをぐるぐる回した。
「食べ物飲み物の美味しさが半減しちゃうわね」
操が言うと、
「半減どころじゃないわよ!」
突然愛子がキレたような声をあげた。
「えっ」
操は驚いた顔で愛子を見た。
回りの客も一斉にこちらを向いた。
一呼吸置いて
「あ、ごめんなさい。最近、感情の起伏が突然激しくなるみたい」
愛子が謝った。
「久我さん、何か悩んでいる事あるのかしら?」
「特には無いと思うんだけど」
「お店はいつ辞めたんですか」
「今年の八月」
「そうなんですか。今朝ね晶さんと会いました。なんか久我さんの…多分体調をだと思うけど気にかけてらした」
「私は元気よ、嗅覚以外」
「お子さんは晶さん一人?」
「いえ、娘が一人いたの、四年前に鬼籍に入ってしまった。親より早く。まだ30歳だったのよ」
「それはお気の毒でした。娘さん、ご病気だったんですか。差し障りがなければお聞きしてもいいですか」
操の問いに、愛子はすっかり冷めた紅茶を一口飲んで口を開いた。
「出産時にね、娘と孫を」
愛子の言葉に、今度は操が冷え切った紅茶を一口啜った。
「あの…どちらで出産を」
操のこの問いかけに、突然、
「知らないわよ!あの子たちが死んだのは私のせいだって言いたいの!」
愛子が叫び、号泣した。操は愛子の隣に座り
「久我さん、落ち着いて」
背中を擦った。
夜、101号室では、柏・柊・茜・藍・鴻と珠子と操の七人が焼肉をしこたま食べた後、操が昼間の喫茶店でテイクアウトした柿のタルトを味わった。
「で、久我さん──母親の方が四年前に娘さんと孫を亡くしたって言ったんだな。ピアスホールはあったのかな」
柊がタルトの下の部分をフォークで必死に割ろうとしながら言った。
「ええ、自分より先に娘さんとお孫さんが逝ってしまったって。それとピアスもしていた。でも彼女、感情の起伏が激しくて詳しい事を聞き出せなかったの」
操が小さくため息を吐いた。
ここにいるみんなは、鴻が珠子を生んだ産院スタッフの話を聞いていたので、久我愛子が鴻の分娩室の前でおかしな態度をとっていたおばあさんなのではないかと考えてしまう。
「だけどね、急に興奮気味に大声を出したりしていたのをなだめようと寄り添った時、彼女から感じられたのは深い悲しみだけだった」
操は考え込んだ。
「結局久我さんの娘さんとお孫さんが亡くなった病院名はわからなかったんだ」
柏が問うと
「そう。明日にでも息子の晶さんに聞いてみる。あと、今日の久我さんの様子も伝えておかないと」
操はタルトを頬張りながら言った。
「そうよね、たまたま出産時期が同じだっただけかも知れないしね」
と、茜は楽観的に考えたが
「でも、母子共に亡くなるなんて私たちの回りであまり無いと思うな」
藍は気になったようだ。
鴻は珠子の口の周りがタルトにかかっていたジャムでベタベタになっているのを濡れ布巾で拭きながら、
「久我さん、挨拶がてら少し話したことがあるんですけど、そんなに態度が急変するんですか」
不思議そうな顔をした。
「私も驚いたわ。穏やかに話していたかと思ったら突然絶叫したの」
操は豹変したときの久我愛子を思い出して少し身震いした。
珠子は、静かにみんなの会話を聞いていた。そして鴻に口の周りを拭いてもらってさっぱりした彼女は口を開いた。
「このアパートに住んでいる人たちの中に悪い人はいないと思います」