元太が大好きな人
「あー、うきゃー!」
「元太、ご機嫌だな」
「元太、何を興奮しているの」
源と鴻が息子の元太をあやしている。
操と珠子が生活している部屋の真上、201号室に珠子の家族が住んでいる。
旅行で湖に行ってから、珠子の弟、齢十カ月の神波元太は泳ぐことに目覚めた。
今も、夏期休暇で単身赴任先から我が家に戻ってきている父親の源にお腹の辺りを持ち上げてもらい、うつ伏せの姿勢で元太は手足をバタつかせて満足気な顔をしている。本人は泳いでいるつもりなのだろう。その様子を楽しそうに母親の鴻が見つめていた。
「元太、おまえは運動神経がいいな。今度お姉ちゃんに泳ぎを教えてやれ」
源が言うと
「うきゃー」
元太が機嫌良く返事をする。
「ねえ、源ちゃん、珠子に泳ぎを教えてあげて。あの子、元太がすぐ泳げてショックみたいよ」
鴻が頼んだ。だが、源は首を横に振る。
「あの子には孝君がついている。彼はしっかりした信頼できる少年だよ。珠子の中では孝君がダントツ一番で、俺はもう頼りにされていないようだ」
寂しそうな源を見て、
「そんなことないわよ、お父さん。あの子も成長しているって事じゃない。私だって、ある時、それまで仁さんにべったりだったのに、急に源ちゃんの後をずっと追いかけるようになって」
「ああ、あの時、父さん悲しそうな顔をしていたな」
仁とは、源の父親で鴻の養父の神波仁のことだ。彼は今はもう鬼籍に入っている。
二人の出会いは源が1歳になって暫く経った頃、神波家の門前に生後間もない鴻が置き去りにされていて、彼女は神波家の養女になったのだった。源は、初めて鴻を見てからずっと彼女の傍を離れなかった。それは彼の初恋で、それを貫き通して今に至っている。
「あー、あー」
「どうした」
「ああー。ぶー」
急に元太の機嫌が悪くなった。
「元太、ウンチか?」
おむつを探るが違うようだ。
「さっきごはんも食べたしな。どうしたんだ」
心配する源を見ながら元太の様子は落ち着いていった。
それから、親子三人はのんびりと午後のひとときを過ごしていた。が、急にまた元太がぐずりだした。
「おい、どうしたんだ」
「ぶうー。ぎゃー」
元太は顔を赤くして体に力を入れていた。暫くの間、手足を乱暴に動かして不機嫌な顔を見せた。それが落ち着いた頃、操から連絡が入った。
源が電話に出ると
──源。私、今さっきタカシ君とビデオ通話をしたの
操は、かなり慌てた声をしていた。
「それで、どうしたんだ?」
──なんか胸騒ぎがしてタカシ君に電話したの
「それはわかった。それで、どうしたんだ」
──姫が、襲われて…
「どう言うことだ!」
──プールで変な男につきまとわれて、今、柏とそこに向かってるところ
「何だって!俺も行く。どこのプールだ」
──姫は無事よ。襲ってきた相手は大変なことになってるけど。まずはアンタに報告をしとこうと思って。私も詳しい事はわからないから、戻ってきたら話すね
そう言って操の通話は切れた。
「珠子、どうしたの?何かあったの?」
鴻が顔を曇らせた。
「俺もわからない。孝君と行ったプールで珠子が暴漢に襲われたけど、そいつが大変なことになったって言ってた」
「何、それ」
「とにかく珠子は無事だそうだ」
「この子が急に暴れたのは、虫の知らせって事?」
「元太は何か感じていたのか」
源と鴻は、珠子たちが戻ってくるのを今か今かと待っていると、操が一人でやって来た。
「母さん、珠子は」
珠子がいないのを責めるように言った。
「姫はタカシ君と『フラワ・ランド』でデートの続きをしてる」
疲れた顔で操が言った。
「とにかくあがって」
源は操をソファーに座らせて話を聞いた。
「昼近くに、姫たちがプールから出て休んでいたら、知らない男がしつこく近づいて来たんですって」
「それって元太が急に機嫌悪くなった頃かな」
源が呟く。操は話を続けた。
「気味が悪いから早めにプールからあがって、お昼を食べたあと、植物園のサボテン温室で例の男が姫に向かって来たの」
「それも午後に元太が暴れた頃か。おまえ、何か感じたのか?」
源が元太を見るが、元太は操に抱かれてご機嫌だった。
「元太が姫の危機を感じてたの?」
操も元太の顔を見て聞いた。
「うきゃー」
操の問いを理解したのか、元太が返事をした。
「不思議ね。私たちは何も感じなかったのに、元太はお姉ちゃんの事を感じたのね」
鴻が驚く。操は膝の上に元太を立たせこちらを向かせると、彼をじっと見つめた。元太も瞬きをせず操を見つめ返した。
「元太は、姫とタカシ君が大好きなんですって。その二人が嫌な気持ちを発しているがわかったみたいよ。あなた、凄いわね」
操の話に、源と鴻はいろんな思いを込めてため息を吐いた。