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珠子、溺れる

「タカシ、今日は平泳ぎを教えてくれるんでしょ」


パイルのパーカーを羽織った珠子が孝の腕に抱きつきながら聞いた。


「ああ、教えるけど、タマコ泳げるかな。おまえは結構体力がないから、あんまり頑張り過ぎるな」


孝は真面目な顔で言った。

湖畔に泊まって三日目、今日の神波の面々は、午前中は各々の部屋でのんびりと過ごして、昼食後に湖で泳ぐことにした。

源に抱っこされた元太は上機嫌だった。目の前の湖を見て


「あー。あー」


元太は興奮気味に声をあげる。


「元太君は水に入るのが好きなんだね」


孝が元太の様子に注目してると、


「タカシ、そんなに元太が気になるんなら元太と泳ぎなよ」


珠子はほっぺたを膨らまして拗ねた。


「何を怒ってるんだよ」


孝が珠子を見て少し笑った。それが気に障った珠子は、孝の腕に絡めていた手を外しパーカーを脱ぎ捨てると、一人で水辺に向かった。


「タマコ、待てって。危ないから一人で水に入るな!」


孝はパーカーを拾い、傍にいた操に渡すと急いで追いかける。後ろから孝が走って来る気配を感じて、珠子もダッシュした。

バシャッバシャッと水の中を進み、気がつくと珠子の胸ぐらいの深さのところまで来ていた。


「私だって元太みたいに泳げるもん」


そう自分に言い聞かせて、珠子は体を前に倒した。が、バランスを崩して上手く水に浮くことができない。手足をばたつかせて必死にもがいた。顔が水面に出せなくて息ができなかった。苦しくて口を開けると水が容赦なく入ってきた。

ああ、私は元太みたいには泳げないんだ。このまま水に沈んじゃうのかな。と、珠子は思い脱力した。


「タマコ!」


「姫!」


「珠子ちゃん!」


「珠子!」


「タマコ!目を開けろ!」


ふっと意識が戻ったが、急な吐き気を感じて、珠子は顔を下に向けて水を吐き出し、出し切ると仰向けになった。

珠子は孝に助けられ砂浜に寝かされていたのだ。みんなが不安そうに、こちらを見ていた。

旅館から女将と医者と看護師らしき三人がこちらに向かって来た。孝が珠子を助けてすぐ柏がフロントに走り、救急車の要請を頼むと、女将が付き合いのある救急指定病院の医師を呼んでくれたのだ。

医師は聴診器で胸と呼吸音を確認する。

人さし指を立てて、


「指先の動きを目で追って」


と言いながら指を左右にゆっくり動かす。珠子の黒眼がそれに合わせて動く。


「苦しいとか痛いとかありますか」


医師の問いに、珠子は小さく、ありませんと答えた。


「あなたの名前と年齢を言えますか」


そう聞かれて


「神波珠子。5歳です」


と、はっきり答えた。

そして、医師は珠子の腹部を触診した後、手足の状態を確認した。


「肺に水が入った時のような音はないし、脳にも問題はなさそうです。しばらく安静にして、何かあったら連絡をください」


医師と看護師、旅館の女将と操が建物へと入っていくと、孝が悲しそうな顔で声をかけた。


「苦しくないか」


「うん、大丈夫。タカシ、ごめんなさい。みんな、ごめんなさい」


珠子が小さな声で言った。


「珠子、元太に負けたくなかったんだろ。お姉ちゃんだもんな」


源が珠子の頬を撫でて優しく言った。


「うん」


小さく頷いた珠子を


「うー」


鴻に抱かれていた元太が見つめていた。


「珠子、部屋に戻って休もうか?」


源が抱き上げた珠子に聞いた。


「ううん。この椅子に座って湖を見ていたい」


「そうか。わかった」


源はデッキチェアに珠子を座らせた。


「私がついているから、みんな湖水浴楽しんで」


元太を源に預け、鴻は珠子を抱き上げチェアに座ると、自分の膝の上に珠子を座らせた。


「孝君、珠子は大丈夫だから泳いでおいで。月美さん、すみませんでした。柏もごめんな。俺も元太を泳がせてくる」


源は鴻に目で合図をして、みんなを押すように水辺に向かった。

珠子と鴻は同じ方向をただただ見つめた。青く煌めく湖水から、微かに水しぶきをあげている音が聞こえた。元太の興奮した声も聞こえる。


「ママ、ごめんね。ママも水に入りたいでしょう」


珠子が消えそうな小さな声で言った。


「いいえ、久しぶりに珠子を膝の上で抱っこできた。本当に大きくなったわね」


鴻が珠子の顔に自分の顔を後ろから近づけた。元太ほどではないが、珠子も微かにミルクの匂いがする。


「ママ、私たちも水に入ろう。もう、深いところまで行かないから」


「動いて大丈夫なの?」


「うん。行こう」


珠子は鴻の膝から降りると手を引っぱった。

鴻は娘に手を引かれながら、もう少しこの子を抱いていたかったなと思っていた。




孝は凪いだ湖水を思いっきりクロールしながら、何で珠子を怒らせてしまったんだろうと考えていた。多分、元太の運動神経の良さに驚いて凄いなと思ったことが珠子のかんに障ったのかも知れない。

確かに孝は昨夜、食事をしながら、元太の泳ぎっぷりが凄かったと羨望の眼差しを向けたのだった。


「初めて水に入ってすぐにタマコのお父さんが元太君を水の中に放したんだ」


それを聞いて鴻が驚く。


「源ちゃん、随分乱暴じゃない」


「いえ、多分、元太君がタマコのお父さんの手から水の方に行きたくて暴れたように、おれには見えました」


孝がその時の様子を説明すると、源も頷いた。


「そうなんだよ。元太が急に手足をばたつかせて、俺の腕から水の中に飛び込んだんだ。そしたらさ、こいつ顔を水面に出して器用に泳いだんだよ」


「きっと、コウちゃんのお腹の中の記憶が蘇ったのかもね。元太は羊水の中が好きだったのよ」


操が口にした言葉に、


「食事中に羊水は結構刺激が強い」


柏が注意する。


「何がいけないのよ。アンタだって三十五年ぐらい前は私の……」


言いかけた操の口を慌てて塞いだ柏が、スモークサーモン美味いぞと話を切り替えた。

そう言えば、そんな賑やかな食事中に話し好きな珠子が一言も喋らなかったな、と孝は思った。

そうか。あいつは両親に、特に母親に普通に接してもらっている元太が羨ましいんだ。そんな元太が自分にできないことをさらっとやってのけるのが悔しかったんだ。


「バカだなぁ」


あいつは弟が持っていない能力でみんなを助けているのに。

おれは、こんなに珠子を思っているのに。

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