湖だ!湖だ!
湖畔に着いた翌日の朝、神波のみんなは旅館の食事処で朝食を取っていた。
今朝のメニューは昆布と鰹節の出汁で炊いたお粥と、この辺りの名物の清流サーモンの塩焼きと蒸した地物野菜、十種類の小鉢にシジミの味噌汁と漬け物、デザートにフルーツがたっぷり入ったヨーグルトだった。
「このお粥、いい味ですね。どう出汁を取ってるのかしら」
料理好きの月美は一口食べては味の分析をしているみたいに考えていた。
「今朝の俺たちには、この味噌汁が一番のごちそうだな」
源と柏は、昨夜差しでハイボールをしこたま飲んで、今は死んだ目をしている。
「アンタたち大丈夫?今日は子どもたちを頼んだわよ。特に元太をしっかり見てちょうだいね」
この旅行のスポンサー様の操がジロリと男二人を睨む。
「はい」
源も柏も静かに声を揃えた。
「タカシ、私に泳ぎを教えて」
珠子がフルーツたっぷりのヨーグルトを頬張りながら隣に座っている孝を見た。
「タマコはいつも自分の口の大きさをわかってないな。ヨーグルトがはみ出てる」
おしぼりで珠子の口を拭きながら、泳ぎを教えてあげるよと、孝は言った。すると珠子が孝の耳元で
「可愛いビキニ着るよ」
と囁いて、下手くそなウインクをした。
「バ、バーカ」
純情な孝はそれだけで顔を紅くして目が泳ぐ。
「相変わらず微笑ましいやり取りね」
操が幼い二人に優しい顔を向ける。
ベビーチェアに収まっている元太は、珠子と孝のことを瞬きもせずに見つめていた。
「あー。あー」
珠子たちを指さして声を出す。
「元太君も泳ぎたいの?」
孝が聞くと
「うきゃー!」
元太が機嫌よく声をあげた。
「だって。源ちゃん、お願いします」
お粥を元太に食べさせながら、鴻が夫に頼んだ。
客室からエレベーターを降りて一階の通路を進みガラスの扉を開けると、目の前に穏やかな湖が陽射しを浴びて青く輝いていた。
「タカシ、暑いから早く水に入ろう!」
珠子が建物から出た途端、想像以上の気温に羽織っていたパイルのパーカーとビーチサンダルを脱いで、柏に持っててと渡すと茶色っぽい砂の上を水辺に向かって走った。
去年に行った海岸の砂より粒が大きく慣れるまで足の裏が痛かったが、早く水に浸かりたくて彼女は我慢して走った。
「タマコ、水に入るのは体を慣らしてから。急に入っちゃダメだ!」
孝もパーカーとサンダルを父親に押しつけダッシュして珠子を追いかけた。足の速い孝は、砂が湿りはじめた辺りで珠子に追いつき、彼女の手を掴んだ。
「この湖は周りの山の雪解け水が湧き水になってできてるんだ。凄く冷たいんだぞ。昨日、膝まで浸かった時どうだった?」
「うん。まあまあ冷たかった」
孝の問いに珠子が小さな声で答えた。
「いいか、ゆっくり水に入るぞ」
孝は珠子の手を握って、二人でくるぶしまで水に入った。
「あっ、冷たい!昨日と違う」
珠子が声をあげる。
「だろう。昨日は昼を過ぎていて太陽の熱で水が温まったけど、今はまだそこまで温まってないんだ。それに足ではあまり感じなくても、お腹や心臓の辺りはもっと冷たく感じるんだよ」
孝は、赤地に白の細かい水玉模様のビキニ姿の珠子にドキドキしながらも、真剣に水に入る時の注意をした。
「いいか、少しずつ水の温度に体を慣らしていくぞ」
「うん」
二人は手を繋いだまま、ゆっくり水際から前進していった。
湖岸の乾いた砂の場所に、旅館が設置した大きなパラソルの下のデッキチェアがあった。そこに、二人分のパーカーとサンダルを押しつけられた柏と元太を抱いた源が座り、水辺で戯れている幼い二人を見つめていた。
「兄さん、タカシはまだまだ子どもだけどタマコからすると頼り甲斐があって信頼できる男なんだ」
柏が言う。
「そうだな。孝君は、いい男だな」
源が納得して頷く。
「うきゃー!あー」
源の膝の上で元太が声をあげた。
「元太も水に浸かるか」
「あー。あー」
「よし、俺たちも行くか」
背の高い男二人と小さな小さな男一人も水辺に向かった。
「タカシ、手を離さないでよ」
「大丈夫。おれを信用しろよ」
孝に両手を繋いでもらって、珠子はバタ足の練習をしていた。
湖は風もなく凪いでいるので、体が波に持っていかれる心配がなかった。水温が思ったより低めなこと以外は、初心者が泳ぎの練習するのに丁度良さそうだ。
「今度は浮かぶ練習をしよう。いいか、ゆっくり仰向けに倒れてみて」
「えっ、後ろに倒れるの?コワイよ」
「おれを信用しろ。頭と背中を支えるから」
珠子は孝に体を預けて仰向けに倒れて水面に浮かんだ。
「タカシ浮いた!」
「そう、体の力を抜いて…。どうだ、空が見えて気持ちいいだろう」
「うん。不思議な感じ」
「よし、腰を少し沈めて立つ体勢になるぞ」
孝はずっと珠子を支え、彼女の足が水底に着くと
「疲れてないか?」
と、気遣った。
「大丈夫。タカシ、泳ぎたいでしょ。私はパラソルのところで休むから、タカシは泳いで」
「わかった。しっかり休めよ」
「うん」
珠子は岸に向かい、孝は彼女が完全に水からあがったのを確認してから泳ぎ始めた。クロールで柏たちの傍に進むと、源が元太から手を離し、一瞬水に沈んだ元太が手足をばたつかせ、見事に泳いでいるのが見えた。
「元太君、凄いじゃん」
孝が驚きの声をあげた。
「こいつ、運動神経がいいんだよ」
源が得意気に言った。が、突然、元太の姿が見えなくなった。
「元太!」
源が水に潜り元太を探した。一メートルほど先でもがいている元太の姿があった。近くに、鱗が七色に輝く小魚が何匹か泳いでいる。
源より先に孝が回り込んで元太を抱き上げ源に渡した。源は片腕で元太を前屈みの状態に抱え、もう片方の手で背中を叩いた。元太は水を吐き出し、そして大泣きした。
「どうした」
柏も傍に来た。
「多分、綺麗な小魚を見て掴もうとしてバランスを崩したんだよ」
と言って、孝が人さし指を差し出すと、元太は泣きながらその指をぎゅっと握った。
「綺麗な魚は触れなかったけど、おれの指で我慢して。大きさ、同じぐらいだろう」
孝が元太の顔を見ると
「うきゃー!」
溺れて水を吐いたとは思えないほど、元太はご機嫌な声をあげた。
「孝君、ありがとう。娘だけでなく、息子も君の世話になってるな」
源が頭を下げた。
「やめてください。おれ、大したことしてないです」
と言いながら、だって元太君は将来おれの義理の弟になるんだからと、孝は思った。