珠子の挑戦と失敗
「ミサオ、暑い」
珠子は、ひとり呟く。
容赦ない午後の日射しの中、歩みを進めながら珠子は全身水浴びをしたかのような汗をかいていた。
いつも歩いている道なのに、なぜ辿り着かないのだろう。珠子の感覚ではもうそろそろ孝の通う小学校の正門が見えて、そのすぐ先に彼女の目的地の第二幼稚園があるはずなのだが、目の前に広がっているのは見慣れた景色ではなかった。
珠子は立ち止まって考えた。
曲がる場所を間違えたのだろうか。来た道を戻ってみようか。頭がぼうっとする。喉が渇いた。水が飲みたい。自分はどうやってここに来たのだろう。来た道を戻れない。どうしよう。
二時間ほど前、
「ミサオ、暑い」
「本当ね。他の言葉が出てこない。姫、ソファーのところのレースカーテンを閉めようか。ここは陽当たりが良すぎてエアコンが効いてないわ」
操が団扇片手に、グラスの麦茶を飲み干した。
「姫、麦茶のおかわりいる?」
「なんか喉は渇いているけど、お腹はちゃぽんちゃぽんだよ」
「そうね。私もよ。冷たいものを飲んで体の中から冷やしたいけど、これ以上飲んだらお腹を壊すわよね」
と言いながら、珠子を見る。
「うん。今日のミサオは、お子さまみたいだね」
「どういうこと?」
「普通、冷たいものを飲みすぎてはいけませんって、大人が子どもに言い聞かせるのに、ミサオの方が冷たいものをたくさん飲みたいって顔をして私をチラチラ見ている」
珠子がニヤリと笑いながら言う。
「はい。その通りです。今日の私は、姫よりお子さまな態度だわね」
「ミサオちゃん、冷たいものを飲みすぎちゃダメですよ」
珠子が子どもに諭すように優しい声をだす。
「はい。気をつけます」
「それじゃミサオちゃん、お昼ごはんの用意をしてください。今日のメニューは何ですか?」
「今日はカレーそうめんです」
「やったぁ!前に食べられなかったやつ」
「そう、この間は姫が口内炎だったからスパイシーなものが食べられなかったものね」
「カレーそうめん、早く食べたい。ミサオ、お手伝いするから早く作って食べよう」
珠子はキッチンに立って操を見上げた。
操がそうめんを茹で冷水で絞めると皿に取り分け、珠子がスライストマトと塩もみした胡瓜とサラダチキンを乗せた。その上から操が冷蔵庫で冷やしておいた豆乳入りのカレースープを回しかけて食卓に並べた。
「美味しそう。早く食べよう」
珠子が真剣な顔をして操を見つめる。
それはまるで、〝待て〟と言われて〝ヨシ〟を待つワンコのようだった。
「いただきます」
声を揃えて言うと、珠子も操もズルズルとそうめんをすすり、あっという間に二人のお腹に収まった。
「ミサオ、美味しかった。カレーの味は夏にぴったりだね」
「カレースープ、頑張って作ったのよ。もちろん月美さんに教えてもらったっんだけどね」
昼食後、ごろ寝用の小振りな布団を敷いて、操と珠子はごろんと横になった。
「お腹がいっぱいで、大の字に寝ると幸せな気持ちになるね」
珠子が話しかけながら顔を横に向けると、操は既に寝息を立てて気持ち良さそうな表情で瞼を閉じていた。
「ミサオ、疲れているんだね」
珠子はごろんと体を操の方に向ける。
少し前にも、操は昼寝で寝過ごして幼稚園の迎えに遅れたことがあった。きっと自分の送り迎えが操の体力を奪っているのだと考えると、申し訳なく思う珠子だった。
「私が一人で幼稚園に行ければ、ミサオはここでのんびりできて、きっと疲れないよね。よし、これから一人で行ってみようかな」
珠子は起きあがると、麦わら帽子をかぶり、
──ようちえんにいってきます
チラシの裏に鉛筆で書き残して、操の部屋を出ていった。
「うわー、暑い」
額や首筋から汗が流れる。デニムスカートのポケットからハンカチを出して汗を拭いた。
「ミサオ、どうしよう。道がわからなくなっちゃった」
珠子は幼稚園に辿り着くどころか、自分のいる場所がどこなのかわからなくなってしまっていた。
彼女はとりあえず日陰を探すことにした。しかし、どこかの住宅地に迷い込んだらしく日陰が見当たらない。人通りも全く無かった。
真上から照らす日射しは短い影しか作らない。知らない人の住宅の垣根も塀も殆ど陰ができていなかった。
「喉が渇いた。もう立っていられない」
珠子は、日向にしゃがみ込んだ。
「タカシに声をかければよかった。もう、歩けない」
珠子は膝を抱えて瞼を閉じた。孝だったら珠子の後ろを黙って歩いて見守ってくれる。道を間違えそうになったら声をかけて、やっぱりおれがいないとダメだな、と言って珠子に笑いかけてくれるだろう。そんなことを考えながら彼女の意識は遠ざかった。
「タマコー」
「タマコ、どこだ」
遠くで懐かしい声がする。孝の声に似ている。夢を見ているのかな。
「タマコ!」
「タマコ!しっかりしろ!」
孝はハンカチをペットボトルの水で濡らし珠子の顔に当てた。珠子はうっすらと瞼を開いた。
「タカシだ」
「おまえ、何やってるんだよ!水飲めるか?」
「うん」
孝はペットボトルを珠子に持たせ、自分の手を添えて水を飲ませた。
「ゆっくり飲め」
珠子に水を飲ませながら、孝は操と月美にメッセージを送った。
夏休みに入る直前に柏が孝にスマホをプレゼントしてくれた。おかげで早速、役に立った。その後、月美が到着し、そして操も肩で息をしながらやって来た。
「ひ、姫!」
操が珠子の前の倒れ込むように跪き抱きついた。
「ミサオ、ごめんなさい」
珠子が小さく言う。
「救急車、呼びますか?」
月美が聞くと、
「大丈夫です」
と言いながら、珠子はゆっくりと立ち上がった。
孝が珠子のすぐ前でしゃがむと
「タマコ、こっち」
振り向いて言った。
「うん」
珠子は素直に孝の背中におぶさった。
相変わらず日射しは強いが、東寄りの風がアパートに戻る四人を少しだけクールダウンしてくれた。
『ハイツ一ツ谷』に戻った一行は操の部屋で珠子の手当てをした。
操が昼寝から起きて珠子のメモを見た途端に部屋を飛び出したので、ソファーの傍に敷きっぱなしになっていたごろ寝用布団に珠子を寝かせた。珠子の体温を時間をかけて測り体の深部体温が平熱なのを確認して、冷たい濡れタオルで顔と体を拭いた。
「タカシ君も疲れたでしょう。ここに横になって休んで。姫を見つけてくれてありがとう」
操に言われた孝は珠子の隣に横になりたかったが我慢して、そこに足を伸ばして座った。
「おれがここから小学校に通い始めた頃、一カ所間違えやすい分かれ道があって、その道を行ってみたらタマコを見つけたんだ」
冷たい麦茶を飲みながら孝が珠子を見つめた。
頭の上に保冷剤を乗せてソファーに体をあずけている操が
「姫、なんでこんな炎天下に一人で外に出たの?」
と聞くと、
「ごめんなさい」
珠子は小さな声で謝った。喋るのがしんどそうな彼女に代わって孝が口を開いた。
「おばあちゃんが、最近、凄く疲れているみたいだから、負担にならないように新学期から一人で登園しようと思ったんだよな、タマコ」
「うん」
珠子が頷く。
「それで、試したんだ。でもタマコ、おれに頼って欲しかったな。おれに言ってくれれば、おまえの後を歩いて間違えやすい分かれ道で正しい行き先を教えてあげられたんだぞ」
「うん。迷った時、なんでタカシに声をかけなかったんだろうって後悔した」
珠子は隣に座っている孝を見上げた。
「お義母さん、落ち着きました?」
月美が麦茶のおかわりを操に渡して隣に座った。操が月美を見て微笑み、その後に珠子を見た。
「月美さん、本当にありがとう。一緒に探してくれて助かりました。姫、私のことを心配してくれるのはありがたいけど、私は送り迎えで草臥れたんじゃないのよ。前も言ったけどただの夏バテなの」
「ミサオ、ごめんなさい」
珠子は反省をしながら、自分一人では何もできないことに深く落ち込んだ。