今日から夏休み
今日から夏休みだ。
一番喜んでいるのは珠子でも孝でもなく操であった。
炎天下の中、幼稚園へ送り迎えをしないでいいのだ。毎朝のルーティンである通路の掃除も鼻歌交じりになる。
「母さん、機嫌がいいじゃん」
後ろから柏の声がした。
鼻歌を聞かれたのが少し恥ずかしかったので、軽く咳払いをする。
「あんた、いつもより出かけるの早いんじゃない?」
「夏の旅行のために、仕事のスケジュールを少し詰め込んだ。夏期休暇取得って結構会社に気を使うんだ」
「それはご苦労さま。タカシ君も姫も旅行を楽しみにしてるからね。お父さん頑張って」
「母さんは気楽だな。今回は源兄さんたちも参加するんだろ」
「そう。茜と藍は行かないけど、源とコウちゃんと元太は参加するって。総勢八名三部屋確保したわよホテル」
「スポンサー様、いつもありがとうございます」
柏が操に、平にひらに頭を下げた。
「ホテル代はこっちで持つけど、燃料費と私と姫の移動は頼んだわよ」
「ははぁ。合点承知の助!」
「表現が古っ。まっ、気をつけていってらっしゃい」
「いってきます」
柏はアパートの駐車場へ歩いて行った。
しばし柏を見送ると、操は自分の部屋に戻った。
キッチンでは珠子が電気ポットでお湯を沸かしていた。
「姫、おはよう。コーヒー淹れてくれるの?」
「おはよう。このスプーン一杯でいいんだよね」
「そう。山盛り一杯でお願いします」
珠子は操のお気に入りのマグカップに、ちょっと値の張るインスタントコーヒーをティースプーンに山盛り一杯分入れるとポットのお湯を注いだ。
「ミサオ、どうぞ」
手を洗って食卓の椅子に座った操の前にマグカップを置いた。周りにコーヒーのアロマが漂う。
「姫、ありがとう。いい香りね。いただきます」
操はふうーっと冷ましながらマグカップを口に傾けた。
「あーっ、美味しい」
幸せそうな顔でコーヒーを味わっている操を満足そうに見ながら、珠子は水出し緑茶を飲んだ。
「ミサオ、朝ごはんはなあに」
「ジャコのおにぎり食べる?」
「ジャコ?」
「うーん。シラスみたいなやつ。ジャコと分葱をゴマ油で炒めてご飯と和えるの。香ばしくて美味しいわよ」
操の話に珠子のお腹がぐーっと鳴った。
朝食の用意ができて、二人でいただきますを言うと、珠子がおにぎりにかぶりついた。
「ミサオ、おにぎり凄く美味しい。あと二つは食べられる!」
「姫の口に合って何よりだけど、それは食べ過ぎよ。ラップしておくから、残りはお昼か夜ごはんに食べましょう」
「はぁーい」
珠子は残念そうに味噌汁を啜った。
「姫、今日は何をするの?」
操が聞くと、珠子が悲しそうな顔をする。
「何にもすることがない」
「タカシ君の宿題を手伝うんじゃないの?」
「うーん、お絵かきとか何か作るのだったら手伝えるけど、よーく考えたら算数や漢字を書くのとかは、私、手伝えない」
珠子が更に悲しそうな顔になった。
「そう思える姫は、去年より大人になったってことだわ」
操が慰めていると、インターホンが鳴って孝の声がした。
ぱっと花が咲いたような笑顔になって、珠子が玄関に走った。が、扉を開けると孝が
「タマコ、おはよう。宿題の手伝いに来てくれると思ってたのに、顔を見せないから迎えに来た」
珠子の手を引っ張った。
「私、タカシの宿題は難しくて手伝えないよ」
元気のない珠子の声に孝が優しく言う。
「今日は絵を描くんだけど」
「えっ、算数や漢字じゃないの?」
「違うよ。今日は図画の宿題をやる。ノッシーを描こうと思ってさ。だからウチに来いよ。一緒に描こう」
「うん。行く!ミサオ、タカシのところへ行ってくる」
珠子が急に元気な声になったので、操が様子を見に玄関に顔を出した。
「タカシ君、おはよう」
「おばあちゃん、おはよう。タマコと一緒に絵を描こうと思って」
「姫、良かったわね。タカシ君のところへ行ってらっしゃい。その前に、朝ごはんの後の歯磨きをすること」
「はーい。タカシ、歯を磨いたら行くね」
「わかった。待ってる」
孝は部屋に戻り、珠子は洗面所へ向かった。
ノッシーのケージの前、広げた新聞紙の上に画板で固定した画用紙が二つ置かれていた。
パレットも筆洗い用のバケツも二つずつ用意されている。
「タカシ、一緒に一つの絵を描くんじゃないの?」
珠子が聞く。
「お父さんが道具を二人分用意してくれたから、それぞれで描いて見せ合いっこしようよ」
孝が答えながら、
「タマコは右側と左側、どっちで描く?まあ、ノッシーはガシガシ歩き回るから、どこから見てもいいんだけどね」
珠子に描く位置を選ばせた。
「じゃあ私、右側で描く」
「わかった。おれはその隣だ」
二人はパレットに絵の具を出して、しばらくの間、無言でノッシーを見つめた。
二人の視線が気になるのか、ノッシーはいつもより激しくケージ内を歩き回る。
「あんまり動くと描けないよ」
珠子がぼやいた。
「イメージでいいんじゃない」
孝は鉛筆でさらさら下書きを始めていた。珠子も負けじと鉛筆を握って、画用紙にノッシーを描いた。
お昼になり、月美が声をかける。
「そろそろ昼ごはんにしない?」
「もうちょっと待ってて」
孝も珠子も絵の具を塗りたくるのに必死だ。せっかく調子が乗っているのならと、月美は二人が描き終わるまでそっとしておこうと思った。
「タマコ、描けた?」
「うーん、ノッシーは本当によく動くね。タカシの絵、上手」
珠子が孝の絵を見て感心する。その後、自分の絵に視線を戻すと、フーッとため息をついた。
「やっぱりタカシの方が上手く描けてる」
「そんなことないよ。タマコのは大胆な絵だ」
描き上げた絵を見ながら何か話をしている二人の様子を見て、月美が傍に行った。
「それぞれの個性が表れている絵ね」
孝が描いたのは小松菜が乗った皿に向かうノッシーで、珠子のは画用紙いっぱいにノッシーの顔と甲羅の半分ほどが描かれたものだった。
「タマコの絵、おれがもらってもいいかな」
「えー、こんなの恥ずかしいよ」
「そんなことないよ。おれには思いつかない…ええと構図って言うか…描き方って言うか、とにかくゲイジュツって感じ」
「じゃあ、タカシのと交換しよう」
「いいよ。そのかわり学校に提出して戻ってきてからな」
「わかった」
二人の話がまとまったところで
「さ、今度こそこお昼ごはんを食べましょう」
月美が声をかけた。
キッチンのテーブルで孝と珠子が焼そばを頬張っている時、月美が二人の絵を眺めながら、
「どっちも、いい絵だわ。ノッシー、あの子たちにとって楽しい夏休みになるといいわね」
相変わらずケージ内を歩き回っているリクガメに話しかけた。




