鴻のヤキモチ
「珠子ちゃん、お迎えが来ましたよ」
ばら組の担任の中山先生に言われて、珠子は靴箱の方へダッシュした。
「ミサ……」
大声で呼びかけようとしたが目の前にいたのは彼女の母、鴻だった。ベビーカーに元太を乗せてこちらに向かって手を振っている。
「ママ、ミサオはどうしたの?」
珠子は不安気に聞いた。突然、久しぶりに母と会った驚きと、祖母の操に何かあったのではないかという心配で頭の中が混乱した。
「珠子ちゃんのお母さん、初めまして。担任の中山ヒロミです」
ぎこちない様子の珠子に気づいた中山先生が傍に来て、鴻に挨拶をした。
「いつも珠子がお世話になっております。母親の神波鴻です」
鴻もお辞儀をした。
「珠子ちゃんは帰りのお迎えにお母さんが来てくれるのを知らなかったのね」
「ママ、ミサオどうしたの?」
珠子がもう一度聞いた。
「お義母さんね、役所に行ってるの。朝、何も言ってなかった?」
「うん」
「元太も、お姉ちゃんに会いたかったのよね」
鴻が元太の横にしゃがむ。
母親の言葉がわかったのか
「あー、あー」
元太が珠子に向かって小さな肉付きのいい手を伸ばしている。
「元太、久しぶりだね。大きくなった」
珠子は気を取り直して
「中山先生さようなら」
担任に挨拶をするとベビーカーを押す母と並んで幼稚園を後にした。
その後ろ姿を見ながら中山ヒロミは、珠子と母親には言葉で表せない微妙な関係性があるのだなと思った。
珠子と鴻は、顔を見合わせることなく前を見たまま歩いた。
「珠子、大きくなったわね」
顔を正面に向けたまま鴻が言った。
「そうかな?元太の方が大きくなったよ。もう、赤ちゃんって言うより、お子様って感じだよ」
珠子も前を見て話す。が、勇気を出して言ってみた。
「ママ、ママの顔を見てもいい?」
「もちろん」
鴻が頷いたので、チラリと顔を向けた。鴻も珠子を見る。
相変わらずキラキラした黒目がちな眼に新鮮な桃を思わせる頬の可愛い顔。鴻は突然立ち止まり、ベビーカーにロックをかけるとしゃがみ込み珠子を抱きしめた。人の往来がある道端だが衝動的に抱きしめてしまった。
鴻は我が子である珠子をもちろん愛している。だが、彼女の瞳を見続けることができない。全てが吸い込まれそうで怖いのだ。抱きしめると珠子と目を合わさないで済む。そして彼女の温もりと柔らかな感触を確かめられる。
「ママ、ごめんね。ママを怖がらせてごめんなさい」
珠子が小さな声で言う。
「違うの。私が変なの。普通じゃないのよ。でもね、私は珠子が大好きよ。だから時々こうやって抱きしめてもいい?」
「うん。私もママが大好きだから、ぎゅっとして欲しい」
しばらくの間抱きしめた後、鴻は立ち上がり、ベビーカーのロックを解除した。
そしてまたお互いに顔を見ること無くアパートへ向かった。
「珠子、孝君のお母さんととても仲良くしてるよね?」
突然、鴻が聞いた。
「うん。最近、タカシと一緒にいることが多いから、月美さんとも会ってる」
「そうか。ママね、ちょっとヤキモチをやいちゃった」
「ママ、月美さんはタカシのママだから仲良くしてるんだよ。もちろん月美さんのこと好きだけど、私と元太のママを好きなのと好きの意味がちょっと違うの」
「そうなの?」
「そうだよ。私はタカシが大好きで彼のママだから月美さんも好きなの」
「うん」
「そして、私のママは私のママだから大好きで、とっても大事なの」
「そっか」
「そう」
「月美さんに嫉妬するなんて、私は珠子よりお子様だね」
鴻は寂しそうに笑った。
昨夜、珠子が寝た頃を見計らって鴻は操の部屋を訪れた。
「お義母さん、こんばんは」
インターホンに呼びかけると、操がすぐ顔を出した。
「コウちゃんどうしたの」
「お義母さんに聞いてもらいたいことがあって」
「それじゃ、そっちに行くわ。元太をひとりにするのは心配だから」
「その前に、お義母さん、一日遅れだけどお誕生日おめでとう。これ私の気持ちです」
鴻が綺麗なラッピングのプレゼントを渡した。
「まあ、ありがとう。嬉しい。気を使わせちゃったね」
「そんなことないです」
操は受け取ったプレゼントを開けて、これ気になってたやつ、と興奮気味に言って喜んだ。それをキッチンのテーブルに置くと
「さ、二階に行きましょ」
玄関に鍵をかけて鴻が住んでいる201号室へ向かった。
部屋にあがると
「元太の顔を見ていい?」
「もちろん」
鴻と一緒に寝室に入った。
手足を四方に放り出すように大の字になって熟睡している元太を見て操は声を出さずに大笑いした。
「逞しい!」
寝室を出ながら操はずっと笑顔を崩さなかった。
キッチンの食卓に向かい合って座ると、
「お義母さん」
鴻が神妙な顔で話し始めた。
「お義母さん、あのね、あの子が月美さんととても仲良くしているのを見かけるの」
あの子とは、もちろん鴻の娘の珠子のことである。
「仲良くって言うか、タカシ君が好きだから姫はカシワの部屋によく出入りしてるのよ」
操が言うと
「珠子の笑顔が違うの。私と月美さんに対して。あの子が幼い頃から私が育児放棄をするみたいにお義母さんに託したんだから、こんなことを思うのはいけないんだけど、月美さんに嫉妬しています」
鴻がぽろっと涙をこぼす。
「あらあら、おバカさんね。姫はあなたのことが大好きよ。ただコウちゃんが今でもあの子の視線を恐れているのはわかっていると思うわ。それが仕方ないこともわかっている。姫が他の人にはない力を授かって生まれた事実を、あの子を産んだコウちゃんが受け容れられないのはしょうがないの」
操が優しく諭す。
「元太が生まれて、珠子とのぎこちない関係がなくなっていくかなって思っていたけど、あの子はますます私から距離を取っている気がします」
「姫はね、コウちゃんが心安らかに元太を育てて欲しいと思ってるのよ。自分を世話してくれた時の辛そうなあなたを知っているから。コウちゃんに余計な不安を感じて欲しくないの」
肩を落として涙ぐむ鴻に操は話を続ける。
「明日、幼稚園の帰りのお迎え、コウちゃんが行ってくれるかな。私は役所に用事があるから代わりにお願い」
「私が」
「向こうには伝えておくから、元太と一緒に迎えに行ってちょうだいな。で、その時に月美さんのことをさり気なく聞いてご覧なさい。外でオープンな気持ちでコウちゃんの気持ちを姫に伝えてあげて」
「はい。そうします」
「ママ、カシワ君の部屋の前に七夕飾りの笹が立ってるでしょ」
珠子がベビーカーの元太を覗き込みながら鴻に話しかけた。
「見たよ。綺麗な飾り付けね。珠子たちが作ったの?」
「うん。短冊もたくさんぶら下げててね、ママも書いて欲しいな」
「わかった。私も書くわ」
アパートに戻ると操が外に立っていた。
「ミサオ!ただいま。ママが迎えに来てくれたんだよ」
珠子が大きな声で言った。
「姫、お帰り。私も今、役所から帰ってきたところよ。コウちゃん、ウチに寄ってかない?」
操が鴻を誘った。
「おじゃまします」
操の部屋で冷たいお茶を飲みながら、鴻が短冊に願い事を書いた。
珠子が隣に座り覗き込む。
──珠子と元太が健やかでありますように
──珠子とってもとっても大好きよ
「ママ、嬉しい」
と言って、鴻の膝の上に乗って抱きついた。
その様子を元太を抱いた操が優しく見守る。
「ママ、笹に結ぼう」
四人は部屋を出て笹の前に行った。
鴻が短冊を結びつけると
「ママ、私が書いたやつ見て」
珠子が自分の短冊を見せる。
──パパ、ママ、だいすき!
──ママ、すこしはなれてても、いつもいっしょ
鴻が珠子を後からおもいきり抱きしめた。