孝、風邪をひく
月曜日の朝、いつものように珠子は孝が柏の部屋から出てくるのを待っていた。
ガンガンガンと足音を鳴らして誰かが階段を下りてきた。珠子が見上げると薄手の生地のスーツを着た魚住だった。
珠子が笑顔で手を振った。
「魚住さん、おはようございます」
「おお、珠子ちゃんか。おはよう。彼氏を待ってるのか」
「はい。でも今日は、まだ出てこないんです」
珠子が心配そうな顔をしていると、扉が開いて柏が出てきた。
魚住と目が合った柏は、軽く会釈をした。
魚住も、どうもと挨拶をした。
「カシワ君、おはよう。タカシはどうしたの?」
珠子が聞く。
「待たせてゴメンな。あいつ、風邪をひいたみたいで熱が結構あるんだ。タマコが外で待ってるから、伝えてくれって」
孝の伝言を珠子に伝えた。
「そうなんだ。タカシ、苦しそうじゃない?」
珠子は心配した。
「呼吸は大丈夫そうだけど、40℃近く熱があるから、これから病院に連れて行く」
「そっかぁ。お大事にね」
「ありがとう。タカシに伝えとく。それじゃ」
柏は、もう一度魚住に会釈をして部屋に戻った。
「彼氏に会えなくて残念だったな」
魚住が珠子の顔を見る。
「40℃も熱が出てるのが心配です。大丈夫かなぁ」
「そうだな。あっ、それから珠子ちゃん、この間の沢野さんの手紙ありがとうな」
「いえ。絹さんが手紙をくれたの魚住さんと私だけだそうです」
「そうなのか。達筆な手紙、うれしかったよ」
珠子は魚住の優しい顔を初めて見た。
「私もです。魚住さん、いってらっしゃい」
手を振って背の高い彼を見送った。
「姫、どうしたの?」
操が部屋に戻った珠子を見ると、彼女は、何か不安そうな心配そうな顔をしていた。
「ミサオ、タカシが高い熱を出したって」
珠子が俯いて言う。
「待ってても、なかなか出てこなくて、そうしたらカシワ君が出てきて言ったの。40℃の熱があるって。これから病院に行くって言ってた」
操は珠子の肩にそっと手を置いて、
「このところ蒸し暑かったから、疲れがたまっていたのかもね。リハビリで通院もしていたから、風邪をもらっちゃったのかもしれないわ」
「そうだね」
「タカシ君にはカシワと月美さんがついているから大丈夫。それより早く支度をしないと遅刻しちゃうわよ」
操に急かされながら珠子は身支度を整えると幼稚園へ向かった。
「珠子ちゃん、幼稚園から帰ったら私のお家に来ない?」
教室でおままごとをしながら、葵が誘った。
「うーん、今朝ねタカシが高熱を出して、私、心配なの。だから今日は看病するの」
「珠子ちゃんと孝君は一緒に住んでいるの?」
「違うけど気になっちゃって」
「さすが孝君のカノジョだね。ちょっと羨ましいな」
「なに恋バナしてるんだよ」
珠子と葵の話に賢助が割り込んできた。
「孝君がね、学校をお休みしてるんだって」
と葵が珠子から聞いた話をすると、賢助が珠子を見た。
「孝兄ちゃん、具合が悪いの?」
「兄ちゃん?」
珠子と葵が声を揃えた。
「おれ、ひとりっ子だから兄ちゃんて憧れなんだ。だから勝手にそう呼ぶことにしたんだ」
「ふうーん」
「それで、孝兄ちゃんはどうしたの?」
「毎朝タカシが学校に行くとき見送ってるんだけど、今朝は外に出てこなかったの。そうしたらカシワ君が出てきてタカシが高い熱を出したって言ったの。カシワ君はタカシのお父さんで私の叔父さんなんだけどね」
「風邪をひいちゃったの?」
「多分そうなんだと思う」
「お大事にな」
「うん。伝えとく。ありがとう」
幼稚園からの帰り道、
「ミサオ、タカシにお見舞いをあげたいな」
珠子が差し入れを買って欲しいとねだる。
「熱があるときは食欲がなくなるだろうからね」
「うーんと、うーんとね、ゼリーなら食べられるんじゃない」
珠子は懸命に考えて操に提案をした。
「それじゃ、月美さんに聞いてみようか」
操がメッセージを送ると、すぐに返事が帰ってきた。
「姫、月美さんがね、オレンジのゼリーをタカシ君が食べたがっているって。プリンちゃんのお店に行こうか」
「うん。ミサオありがとう」
二人は『ハイツ一ツ谷』を通り越して商店街へ向かった。
グレーの巻き毛が可愛い看板犬プリンが出迎えるカフェ『ぶるうすたあ』の注文カウンターで
「カナさん、こんにちは」
操が、この店の主人で看板犬の飼い主の江口カナにオレンジゼリーを注文した。
「いつもありがとうございます。ウチのプリンが大好きな孝君が発熱して、そのお見舞いですか。風邪なら、のどごしがいいゼリーを用意しますね。少し待ってください」
カナがしばらくの間、奥に引っ込むと何か作業をしているようだった。その間、珠子はベドリントンテリアのプリンと触れ合っていた。
「お待たせしました」
カナがケーキ用の箱を持ってきて中を操に見せた。そこにはオレンジ色の液体と赤紫色の液体が入ったプラスチックのカップが納まっていた。
「ウチのフルーツゼリーは果物がごろごろ入ってるんです。でも風邪だったらのど越し良く食べられるように、具を入れないのを作りました」
カナがゼリーの説明をすると
「わざわざ作ってくれたんですか。ありがとうございます」
操は感謝を言葉にした。
「いえ、ゼリー液はストックがあるので。ただ冷やし固める時間が無かったので、お宅でよく冷やしてから召し上がってください」
カナからケーキの箱を受け取ると店を後にした。
アパートに戻り、操と珠子はすぐに柏の部屋を訪れた。
「月美さん、これオレンジとぶどうのゼリーなんだけど作りたてで、まだ固まってないの。よく冷やしてタカシ君にあげてね」
玄関先で操がケーキ用の箱を傾けないように月美に渡した。
「ありがとうございます。本当はあがっていただきたいんですけど、あの子の風邪が移るといけないので、ここですみません」
月美が恐縮して頭を下げた。
「いいのいいの。また料理を習いに来るわね。お大事にね」
「タカシにお大事にって伝えてください」
そう言って二人は柏の部屋を出た。
夜ごはんを食べ終わったころ、操の携帯電話に柏から着信があった。
「もしもし」
操が出ると、孝のかすれた声が聞こえた。
──もしもし、おばあちゃん、ゼリーありがとう。美味しいかった。
「そう良かった。なんだか喋りにくそうね。喉が腫れてるんじゃない?」
──うん。扁桃腺が凄く腫れているってお医者さんに言われました。
「そう。しばらく辛いわね。ゆっくり休んでね」
──ありがとう、おばあちゃん。タマコの声が聞きたいんだけど。
「ちょっと待ってね」
操は珠子に携帯電話を渡した。
「もしもし、タカシ、お話をして大丈夫なの?」
──うん。ベッドで横になって話してる。今朝は外に出れなくてゴメンな。
「いいの。タカシ、喉が痛いの?」
──うん。腫れて痛いんだ。でもゼリーは美味しかった。喉をツルンと通って気持ち良かったよ。
「食べられて良かった。幼稚園でね、タカシが高熱を出したって言ったら、葵ちゃんがお大事にって。それから賢助君がタカシ兄ちゃん具合が悪いのかって聞かれたの」
──タカシ兄ちゃん?
「うん。賢助君はひとりっ子だから、タカシみたいなカッコイイお兄ちゃんに憧れているんだって」
──なんか照れくさいな。
孝のゼイゼイと苦しそうな呼吸音が聞こえたので珠子は早口で思いを伝えた。
「タカシ、ゆっくり休んで風邪をやっつけて元気になってね」
──ありがとう。治ったら出かけような。
「うん。デート、楽しみにしてる。声が辛そうだから電話を切るね」
──うん。おやすみ。
「おやすみなさい」
珠子は通話を切ると携帯電話を操に返した。
「タカシ君、ゼリー食べられて良かったわね」
操が珠子に微笑んだ。
「タカシの風邪が、私の口内炎みたいに一日で治るといいな」
と、珠子は祈るようなポーズを取りながら呟いた。