夏色
『ハイツ一ツ谷』の104号室に住んでいた沢野絹が特別養護老人ホームに入所したため、部屋を退去した。それで今日はこの部屋に、大家の神波操と、このアパートを建てた建設会社の神波柊と、ハウスキーパーの神波茜が集まり室内のメンテナンスの確認をしていた。
柊も茜も操の息子と娘なので、遠慮なくいろいろな意見を言い合った。
「絹さんは掃除もまめにしていたしたばこも吸わないので結構状態は良いよね」
操が部屋を見回した。
「ただ日焼けはどうしようもできないな。フローリングでもやっぱり家具のあったところは色が濃いでしょう」
柊は床や水回りをチェックした。茜も清掃でどこまで綺麗にできるか、そしてそれによって交換しないで済むパーツがあるかなど柊と細かく相談と打ち合わせをしていた。
二人の話を聞いていても操にはよくわからないので
「話がまとまったら、見積もりを持ってウチに来て。よろしく」
と言って自分の部屋に帰っていった。
「ただいま」
部屋に戻った操が言う。もちろん返事は無い。彼女の愛すべき孫の珠子は今の時間、幼稚園にいる。
珠子がいない自分の部屋は、静かで寂しかった。決して広い間取りでは無いのだが、あの小さな少女がいないだけで、こうもこの部屋が広く殺風景に感じてしまうのが不思議だった。半日ほど珠子の姿が見えないだけで、寂しくてたまらないのだ。
「いい加減、孫離れしなくちゃね」
操は声に出して自分を戒めた。
とりあえず、珠子のおやつに焼こうとクレープの生地を用意することにした。できあがった生地を冷蔵庫で寝かせると身支度を整えた。
午後二時を回って、操は日傘をさして珠子を迎えに幼稚園へ向かう。五月の日射しは強烈で、まるで盛夏のように肌を攻撃をしてくる。もう間もなく幼稚園の正門だ。その手前に小学校の正門があり、低学年と思われる児童たちが賑やかに声をあげながら下校をしている。
操は、『第二幼稚園』と彫られたプレートが埋め込まれた門を通り抜け園舎へ向かった。
「ミサオ!」
珠子がこちらに向かって手を振っている。操も手を振り返した。担任の中山先生も珠子の後ろで会釈をしている。
「先生こんにちは。今日も暑いですね」
「神波さんこんにちは。そうなんですよね。せっかく天気が良いので庭で遊ばせたいんですけど、熱中症対策のルールでできないんですよ。園庭の遊具も熱くて触れないんです」
「まだ五月なのを忘れそうですね」
「本当に」
操と先生は、珠子が外履きの靴に履き替えている間、暑さに辟易していることを話していた。
「ミサオ、帰ろう。中山先生さようなら」
珠子が先生に向かってお辞儀をした。
「さようなら。気をつけてね」
先生は手を振って見送った。
幼稚園の門を出ると、先の方で孝がこちらに向かって大きく左手を振っていた。
「タカシ!」
珠子が走り出した。
「走らないで!」
孝が大きな声で注意する。
勢いよく走った珠子は思うように止まれず孝に体当たりしてしまった。
「姫!」
さすがに操が怒った声を出す。
「タカシ君が、ひっくり返ったらどうするの!」
「ごめんなさい」
珠子は素直に反省した。右手を怪我している孝がこれ以上負傷したら、もう顔を合わせられないと珠子は思った。
「今のおれは、一緒にひっくり返っても自分のことで手一杯で、おまえをカバーできないよ。お前が怪我をしたら大変だからな」
そう言う孝を見て、彼が珠子を大切に思ってくれているのを感じて、操はとても嬉しくなった。
「タマコ、いつもの」
いけない事をしてしまい反省しきりの珠子に声をかけて、孝は斜めがけバッグを彼女に向けた。珠子は手前の大きなポケットから、水色と黄色のキャップを取り出した。
「あれ、帽子の色が変わった!」
珠子が目を丸くする。
「ペアルックをしたいんでしょ。だから夏用の制服に色を合わせてお母さんに作ってもらった」
通常は、六月に臙脂色の冬の制服から夏用に替えるのだが、今年は前倒しで五月から水色の夏服の着用して、今日も珠子と孝は色味を揃えたペアルックで歩くことができたのだ。
爽やかな夏色を纏った二人が手を繋いで歩く後ろ姿に操は微笑ましく思いながら、後に続いた。