苦手なもの
「タマコ、どうしたの」
学校から帰ってきた孝が操に聞いた。
毎朝、珠子は幼稚園に出かける前に孝のことを元気よく見送ってくれるのだが、今日はその姿を見せなかった。帰りは一緒に帰れるかもしれないと校門の前で待っていたが、残念ながら珠子は姿を現さなかった。心配になった彼は帰宅してすぐに操の部屋を訪ねたのだった。
「タカシ君、あがって」
操に言われて奥に行くと、シロクマのぬいぐるみを抱いてソファーで体を丸めてちょこんと座っている珠子がいた。
孝は彼女の隣にそっと腰を下ろすと
「タマコ」
静かに声をかけた。珠子はチラリと孝を見ると、彼に寄りかかった。
「タカシ、タカシの苦手なものってなあに?」
珠子に聞かれた孝はしばらく考えて
「暗いところかな」
と、答えた。
「虫とか蛇とか平気なの?」
「毒があるとか噛まれるとか大怪我をするのは嫌だけど、そうじゃない生き物は大丈夫だと思う。珠子は?」
「蝶々と蛾」
「ああ、羽の柄が気持ち悪いやつあるよな」
「羽についてる粉が嫌なの」
「鱗粉か?」
「うん」
「タマコ、何かあったのか?」
孝が珠子の顔を覗き込む。珠子は抱いているぬいぐるみにおでこをつけて俯く。
「昨日、遠足で怖い思いをしたらしいの」
操が珠子の元気のない理由を孝に話した。
「タマコの顔に止まるなんて、生意気な揚羽蝶だな。おれだって、おまえのほっぺたにあまり触れないのに」
孝が珠子の頬に触るふりをする。
「ばーか」
と、珠子が少し笑った。
「タカシはなんで暗いところがダメなの?」
「おれが小さかった頃、お母さんが仕事で帰ってくるのが遅かったんだ。帰ってくるまで電気代が勿体ないから灯りをつけないで真っ暗な中でじっとしていた。冬なんて夕方の五時を過ぎるとかなり暗くなって、お母さんが帰ってくるのが九時とか十時を過ぎるんだ。真っ暗な中で外の風の音がヒューヒュルルって鳴ると凄く怖かった」
孝はあまり遠くない昔を噛みしめるように思い出していた。
「小さい時に経験した怖かったり嫌だった事って、苦手になるよな」
孝がぼそっと言うと、操が、そうねと言った。
「そうね。一種のトラウマになっちゃうのね」
「タマコ、おれが一緒の時は、蝶や蛾を追っ払ってやるから、安心しろ」
孝が左腕で珠子の肩を軽く抱いた。
「タカシ、左腕大丈夫なの?」
珠子が慌てて聞く。
「簡易ギブスは着けてるけど、もう吊らなくていいって先生に言われた」
「やっぱり若いと治りが早いのね。でも過信は禁物よ。まだ無理しないでね」
「はい」
心配してくれる操に孝は素直に返事をした。
「姫、明日は幼稚園に行ける?」
「うん。葵ちゃんや賢助君や中山先生に助けてもらったお礼を云わないと」
珠子はあの時、三人にお世話になったからね、と操に言った。そして聞いた。
「ねえ、ミサオの苦手なものってあるの?」
「うーん、この年になると結構何にも気にならなくなるわね」
「蛾とか暗いところとか平気なの?」
「平気じゃないけど、昔と比べると気にならなくなるみたい」
操はそう言いながら、目の前の珠子と孝を見て
「でもね、私の大事な孫たちが悲しんだり辛そうにしているのを見るのは苦手よ」
と、二人に伝えた。