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遠足と揚羽蝶

珠子には苦手なものが一つある。

それは彼女が初めて自分の足で外を歩いた時に遡る。

珠子は2歳まで一歩も足を踏み出すことができなかった。その頃に実の母の鴻から祖母の操に預けられ、日々を過ごすようになった。

操に連れられて芝生の庭に出ると、珠子がはいはいをしながら地面の石ころを掴もうとした。掴み損じた石はコロコロ転がったように見えた。

操が見守る中、それを追って珠子はゆっくり立ち上がると小さな足を右に一歩、バランスを保つために左に一歩、交互に前に出して歩き始めた。

そして、掴もうとした石の傍に辿り着くと、それに向かって手を伸ばす。

すると、それは突然、珠子に向かって飛んできた。びっくりした彼女は尻もちをつき、そのまま固まった。石だと思っていたものは珠子の頬にピタリと止まり、彼女はそれを取り除こうと小さな手を頬にあてた。そして掴む。石のような立体感はなく、表現し難い嫌な感触だった。握った手を開くと三角形の薄べったい茶色いもので、手のひらは茶色い粉にまみれていた。それを見た珠子は


「ぎゃー」


と叫ぶように泣いた。

操が急いで駆け寄り


「うわっ、姫、蛾を掴んじゃったのね」


大泣きしている珠子を外水栓に連れて行き、手と顔をよく洗った。

それ以来、珠子は鱗粉を纏った虫──蛾と蝶が大の苦手、天敵となった。




今日は、珠子が幼稚園に通うようになって初めての遠足だ。観光バスに乗り、隣の県にある大きな植物園に向かった。

珠子は葵と一緒のシートに座り、初めて乗る観光バスの大きな窓からの流れる景色を眺めた。


「珠子ちゃん、天気が良くてよかったね」


葵が窓の外を見ながら言った。


「そうだね。葵ちゃん、お昼になったら一緒にお弁当を食べようね」


食いしん坊な珠子は青空の下でお弁当を広げて食べるのが楽しみで仕方なかった。

植物園は初夏の花々が満開でミツバチやシジミチョウがふわりふわりと飛び交っていた。


「珠子ちゃん、ハチのブーンって音が怖いね」


葵が珠子と繋いだ手に力を入れる。


「私は音をさせないでパタパタ近づいてくるチョウチョが怖いよ」


珠子は小さな蝶が近づくと葵にしがみ付いた。


「私、チョウチョは平気だから傍に飛んできたら珠子ちゃんを守ってあげる」


「うん。お願い」


二人はピタリとくっ付いて植物園の中を歩いていった。

大きな温室に入ると虫たちの姿が見えなかったので、珠子は、ほっとひと息ついた。だが、その次に入る建物には『蝶館』という看板が掲げられていた。ガラス張りの建物には、外から見てもはっきりと大きな蝶がたくさん、ふわりひらりと飛んでいるのがわかった。


「葵ちゃん、私ここで待ってる」


珠子は葵に言った。


「わかった。私すぐに戻ってくるね。中山先生に珠子ちゃんのこと言っておくよ」


葵は蝶館の中に入っていった。

みんな、なんであんな怖いものが飛んでいるところに行けるんだろう、と珠子は不思議に思った。

やがて、ばら組のみんなが蝶館から出てきた。葵が珠子のところに駆け寄る。


「葵ちゃん、お帰り」


「ただいま」


「葵ちゃん、凄いね。よくあのヒラヒラの中を歩けたね」


珠子が感心する。


「触られても痛くないから平気なの。珠子ちゃんはなんでダメなの?」


「羽根に粉がついてるから」


「粉?」


「うん。初めて歩いた時に怖い思いをしたの」


珠子は鱗粉で怖くて嫌な思いをした時の話をした。


「石だと思ったら蛾だったって怖いね」


「うん。最悪だった」


珠子は、その時のことを思いだして泣きそうになった。

お昼になり、芝生の広場でみんながお弁当を広げる。珠子と葵と賢助も並んでお弁当を食べていた。珠子がサンドイッチを両手で持ってパクッと頬張っていた時、黒とブルーグリーンのコントラストが美しい大きな揚羽蝶が目の前をひらりと横切った。珠子はポトリとサンドイッチを落とし立ち上がると、真っ青な顔で後退った。


「珠子ちゃん」


「大丈夫?」


葵と賢助が振り返って珠子を見た。怯える珠子の鼻先に、さっきの大きな揚羽蝶が止まっていた。目をぎゅっとつぶり顔を左右に振ってみたが蝶はボンドで固定したみたいに鼻から離れなかった。葵と賢助は立ち上がり珠子に駆け寄り二人で蝶を手で払おうとした。

しかし、その大きな揚羽蝶は珠子の鼻筋に沿って上に進み眉間で動かなくなった。珠子は堪えられなくなり、


「びぃえぇぇー」


と大泣きした。その声に、担任の中山先生が走り寄った。


「珠子ちゃん!」


「先生、蝶が珠子ちゃんの顔から離れないの」


葵も賢助も羽を持つのはできなくて、中山先生に助けを求めた。そして、先生の手によって揚羽蝶は取り除かれ、珠子は泣きながら座り込んだ。

それからの珠子は、植物園を出てバスに乗って中山先生に肩を抱かれたまま、ずっと泣き続け幼稚園に到着しても嗚咽が止まらなかった。操が迎えに来ても珠子は泣き止まず、苦しげに操にしがみ付いた。

中山先生と葵と賢助がお昼ごはんの時の出来事を説明すると


「面倒を見てくれて、皆さん、本当にありがとうございました」


操はお礼を言って珠子を連れて帰った。

アパートに戻ると、すぐに珠子にシャワーを浴びさせた。風呂からあがった珠子の髪を乾かしながら


「姫、今日は災難だったわね」


と、操は優しく話しかけた。


「うん。大っきいチョウチョが私から離れなかった」


珠子が力なく言う。


「その蝶は、姫に何かを伝えたかったのかな」


「それなら、離れて言えばいいのに」


「姫に逃げられないようにしたのかもね」


「とにかく、チョウチョは大っ嫌い」


と、言いながら珠子は両手を操に向けた。


「ミサオ、抱っこして」


「あら、甘えん坊さんね」


いいわよ、と言って操はソファーで珠子を抱っこすると


「今日は、お疲れさまね」


優しく労いの言葉をかけた。

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