ノッシー
月美が小松菜を洗い、リンゴをスライスして、彼女より早くからこの部屋に住んでいるリクガメのケージの前に持ってきた。
亀の脳みそはとても小さく、おバカさんとよく言われるが決してそんな事はない。
「お待たせ、ゴハンよ」
月美が、目の前のケージの主に声をかけながら、小松菜とリンゴが乗った彼専用の皿をアクリル板越しに近づけた。
彼──ノッシーは月美の呼びかけに反応し彼女に目を合わせながら皿を置いてくれるのをじっと待つ。そして、それがケージの中に置かれた途端、かなりの勢いで瑞々しい緑色の葉にかぶりつく。
彼はグルメで、意思がはっきりしている。くたっとなった青菜には見向きもしない。なので月美は鮮度のいい小松菜をノッシーに与え、少し元気のないものは炒め物やおひたしにして自分たちのおかずにする。
ノッシーは、ホルスフィールドリクガメとかロシアリクガメとかヨツユビリクガメと呼ばれる、初心者が飼いやすい地中海リクガメの仲間だ。
月美の夫の柏に迎え入れられて、二年以上になる。ノッシーは男の子だ。ここに来たばかりの頃は体が小さくて性別は判らなかった。二年近く経って、尻尾が太く長くなったので男の子なのが判明した。今は食欲旺盛だが、ある時、発情が始まったようで急にゴハンを食べなくなり、様子も今までと違った事があった。初めてその状況に遭遇した時、柏はとても心配したのだった。
ところでもう一度繰り返すが、亀は、と言うかノッシーは決しておバカではない。
人の顔や声を覚えて相手によって自分の主張の仕方を変えている。
月美は毎朝ゴハンをくれるのでお腹が空いたら素直に一生懸命に彼女の顔を見つめ続ける。時にはケージの壁をガリガリ引っ掻いて音を立てゴハンを催促する。
月美の息子の孝には、あまり感心を示さない。彼はノッシーの名付け親だが、たまにしかゴハンをくれないからだ。学校から帰ると、しばらくの間ケージ越しにノッシーを観察するように見つめるが、すぐどこかに行ってしまう。その殆どは隣の珠子に会いに行っている。
そして、この部屋の主で月美の夫の柏は、ノッシーの甲羅の直径がまだ五センチぐらいだった頃にここに迎え入れた人物だ。柏は仕事が終わって帰宅すると夜ごはんをくれる。彼は甘い物好きのノッシーのために、果物多めの皿を置いてくれるのだ。気候の良い時には、庭の芝生の上を歩かせてくれる。ノッシーは世話好きな彼が好きである。彼が帰ってくるとケージ内をガシガシザクザク歩いて自分の存在をアピールするのだ。
そして一日置きに温浴をさせられる。リクガメは水に入るのが苦手で手足をばたつかせて暴れる。すると、浴槽と同じ温度のお湯が入ったノッシー専用の洗面器の中で、ウンチとオシッコとヨーグルトのような尿酸をする。その度にお湯を交換してもらい最後に体をきれいにして、タオルでよく拭いたらケージに戻される。
ケージ内でも、自分の居心地の良い場所には糞や尿をしない。下の躾はできないが、ノッシーなりに快適空間を作っているのだ。
ある日の午後、ノッシーのケージの前で子どもが二人、中を覗き込んでいた。孝と珠子だ。
二人はぴったりとくっ付くように肩を並べて座り、ノッシーが動き回るのを見つめていた。
「ノッシーは本当によく歩き回るね」
「うん。いつもならタマコもいるし、一緒に外で散歩をさせるんだけど、おれの腕が治るまでダメだって言われちゃった」
「カシワ君に?」
「うん。お父さんもお母さんも。両手が自由に動かせるようになるまで我慢しなさい、だって」
「そうか。でもここでタカシと並んでノッシーを見ているのも楽しいよ」
珠子が笑いかける。孝は満更でもない顔をして
「そうだな」
と、言う。
そして、ノッシーは思う。
目の前でイチャイチャするならリンゴをくれ!