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今日の操

操のところに、104号室の住人、沢野絹の娘の池田洋子とケアマネジャーの水田あゆみがやって来た。


「こんにちは。こちらにいらしたと言うことは、絹さんの入居が決まったんですね」


と言いながら、操が部屋に二人を招き入れた。

操、洋子、ケアマネの三人がソファーに座りお茶を啜ったところで、絹の娘の洋子が話を始めた。


「神波さん、無事に母の入所が決まりまして、これから書類等の手続きをするのですが、今月中に退去させていただくつもりでございます。この予定でよろしいでしょうか」


「ええ、大丈夫ですよ。絹さんの顔が見られなくなるのは寂しいですけど、新たな門出ですから」


操は笑顔で答えてから、絹の様子を聞いた。


「最近、絹さんとお会いする機会がなかったのですが、体調はいかがですか」


「はい。お元気に過ごしていらっしゃいます。先ほど伺ったんですけど、いつものようにフローリングワイパーで床の掃除をしていました」


ケアマネジャーの水田が、その姿を思い出したのか、笑顔で答えた。


「そう言えば、可愛いお嬢さんの姿が見えませんね」


洋子が周りをさっと見回す。


「あの子は、この春から幼稚園に通ってるんです」


「そうなんですか。皆さん新しいところに進まれているんですね」


と、洋子がしみじみと言った。

絹が老人ホームに入所して、ここにある家具や荷物の搬出をする日取りが決まったら、すぐにご連絡しますと、洋子が挨拶をして水田とともに操の部屋を後にした。

湯呑みを片づけながら、操はなんとなく寂しい気持ちになった。

気分転換に外に出た操が、何の気なしに階段に目をやると、


「エーっ」


思わず声をあげ、慌てて上っていった。階段の上の方で、元太が後ろ向きになって足を伸ばし段差を探りながら下りているのだ。


「元太、ストップ!動いちゃダメ!」


上から三段目で操が元太を捕まえた。怖いものなしの暴れん坊を抱き上げて、操の部屋の真上にある源の部屋へ向かうと開けっ放しの玄関扉のすぐ先、三和土(たたき)で鴻がうずくまっていた。


「コウちゃん、どうしたの!」


「元太が、元太が……」


「大丈夫よ。ここにいるわ。気分悪い?横になりましょうか。ちょっと待ってね」


操は玄関から奥に進み、リビングに置かれたベビーウォーカーのシートに元太の足を突っ込み座らせた。そして、クッションを一つ掴んで玄関に戻ると、鴻の頭の下に置いて、彼女をその場に寝かせた。


「コウちゃん、話せる?」


「はい。ちょっと立ちくらみがして動けなくなっちゃいました。ありがとうございました。もう大丈夫です」


鴻がゆっくり起きあがろうとする。


「まだ動かない方がいいわよ」


操が制した。


ザーザーガラガラとキャスターを転がし、ベビーウォーカーに乗った元太がやって来た。


「元太の脚力は凄いわね」


操は感心しながら、小さな暴れん坊のほっぺたを軽く突いた。元太が満足そうに破顔する。


「笑った顔が姫にそっくり」


思わず操も笑顔になった。

鴻がゆっくりと起きて、ふうっと息を吐いた。


「お義母さん、すみません。助かりました」


頭を乗せていたクッションを胸元で抱きしめながら、鴻が俯いた。


「どこかに出かけようとしてたんでしょ」


「はい。天気も良いので元太と散歩に行こうと思って」


「立ちくらみは頻繁に起きるの?」


「いえ、初めてです」


「元太は脚力があって運動神経がいいからか、ちょっと目を離しただけでとんでもない所に行きそうね。今も階段を下りてたわよ」


「ええっ、階段」


「後ろ向きになって慎重に下りていたけど、踏み外したら大変だからねぇ」


「これからは迷子紐を着けます」


「その方が安心ね。でも、コウちゃんの体調が気になるわ」


「本当に大丈夫です」


「散歩に行こうと思っていたんでしょ。コウちゃんさえ良ければ、一緒に出かけましょうよ、これから」


「いいんですか?」


「ええ、姫が幼稚園に行っちゃって日中がヒマになってしまったから」


「迷子紐を持ってきます。元太、良かったわね。おばあちゃんが一緒にお散歩に行ってくれるって」


鴻が立ち上がった。


「ゆっくりでいいわよ」


操が声をかけた。

元太にベストの様なハーネスを着けリードをウェストのベルトに繋げた鴻がマザーバッグを持とうとすると、


「そのバッグは私が持つわ」


操がバッグを肩にかけた。

三人はアパートを出て商店街の先の公園へ向かった。

途中、商店街の手前の道を操が指をさして言った。


「ここに姫のお友達のお家があるのよ」


「あの子に友だちができたんですか」


「そうなの。すっごく綺麗な顔をした男の子でね、この間遊びに来たのよ」


「珠子も普通に社会生活ができているんですね」


「ええ。私としては少し寂しいけどね」


「お義母さん、図々しいけど元太の相手も時々お願いします」


「任せて」


暴れん坊の相手はちょっと大変だけどな、と思いながらも操は嬉しそうに返事をした。

商店街に着く前に、元太は抱っこに飽きて激しく動くので鴻が下ろすと彼女のふくらはぎに掴まって立っていた。


「元太はまだ六カ月よね。足の力が強いから立って動きたいんでしょうね」


操が今更ながら驚いた。


「珠子は歩くのが遅かったから対照的ですよね」


「その代わり姫は喋るのは早かったわね」


「はい。とっても」


操も鴻も生まれたばかりの珠子を思い出していた。

元太が地面ではいはいをしようとするので鴻は慌てて抱き上げた。


「コウちゃん、商店街でお弁当を買って公園でお昼にしようか」


操の提案に、鴻は笑顔で大きく頷いた。

総菜屋でおにぎりとおかずを買い公園のベンチでランチをした。元太は家から持ってきた鶏肉と野菜のペーストとプリンをあっという間に完食して哺乳瓶の麦茶をゴクゴク飲むと、プハーっと息を吐いた。


「ビールを一気に飲み干したサラリーマンみたいね」


操が大笑いした。


ランチを終えると、元太をブランコに座らせて鴻がゆっくり揺らした。


「あーあー」

元太がご機嫌な声をあげる。やがて草臥れたのか彼は瞼を閉じてすやすやと眠った。


「ベビーカーを持ってくれば良かったわね」


鴻が脱力した元太を重そうに抱っこしているのを見て操が言うと、彼女が笑って首を横に振った。


「私、こう見えて腕力には自信があるんです」


アパートに戻って元太をベビーベッドに寝かせると鴻が操にお礼を言った。


「お義母さん、今日は助かりました」


「私が暇な時はいつでもつき合うから声をかけてね。それにしても、遊ぶ時は思いっきり遊んで寝る時は揺らしても全然起きなくて、元太は大物になるわよ。それじゃあ、またね」


鴻に手を振って、操は自分の部屋に戻らず珠子のお迎えに向かった。


「ミサオ!」


幼稚園に着くと、操の姿を見つけた珠子が大きく手を振っていた。


「姫、お待たせ」


操も手を振りながら珠子に向かって歩き、今日はそこそこ動いて充実したなぁと自己満足した。

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