孝の半分
土曜日、珠子は柏の部屋に来ていた。操が外出するため柏と月美に預けられたのだ。
昼過ぎ、柏たちが買い出しに行くので、珠子は夕食に何を食べたいかリクエストを聞かれた。
「タマコ、夜ごはんは何がいい?」
「月美さんのごはんは美味しいから、何でもいいよ」
と珠子が答えた。
それを聞いて柏は嬉しそうな顔をする。
「だよな。月美のごはんは何でも美味いんだ」
結局、珠子は柏の惚気を聞かされる事になる。
それはごちそうさま、と珠子は言った。
その様子を見ていた孝が呆れた顔をして
「タマコ、ノッシーのところへ行こう」
珠子の手を引っ張ってリクガメのケージの前に連れていった。
「あのさ、この間、タマコのところに遊びに来ていた綺麗な子、なんて名前だっけ」
と孝に聞かれて、珠子は少し顔を曇らせながら答えた。
「葵ちゃん。気になる?」
「うん。だって男の子なんだろう。タマコがその子と仲良くしているのは気になる」
と、言う孝に、珠子は
「なーんだ」
と言って、クスッと笑った。
「なーんだって、なんだよ」
孝が軽く睨んだ。
「タカシが葵ちゃんは女の子だと思っていて、紹介してって言われるのかと思ったの」
「バーカ。そんなんじゃないよ。おれは、おまえがおれ以外の男子と仲良くしているのが気になっただけだよ」
そう言われた珠子は、嬉しそうに孝の右腕をつんつんと突いた。
「だけどさ、あの子お人形みたいな顔をしてるよな」
孝には、葵の顔は色素が薄くて骨格が美しくて自分や珠子とは少し違うなと思ったのが、彼と会った時の第一印象だった。
「あのね、葵ちゃんはクオーターなんだって」
「クオーター?おじいさんかおばあさんが外国人なのか」
「うん。葵ちゃんのおじいさんがオーストラリア人で、ママがハーフなんだって。すっごい美人なの」
「へえ」
「タカシ、私もハーフなんだよ」
「嘘つけ。おまえは可愛いけど、どう見ても日本人だ」
そう言った孝の顔を、珠子は見てニヤッと笑った。
「パパとママのハーフだもん」
「何を言うのかと思ったら…。じゃあ、おれはお父さんとお母さんのハーフって事だろう」
「うん。そう」
「じゃあ、日本中ハーフだらけじゃないか」
確かに、孝の言う通りだなと思った珠子は笑って惚けることにした。
だが、孝は珠子との話で考えてしまった。
自分の半分は母親の月美の遺伝子でできているが、もう半分はどんな人の遺伝子なんだろう。物心ついた時にはお母さんしかいなかった。自分は今の父、柏が大好きだ。でも彼の遺伝子は受け継いでいない。孝の心はもやもやした。
「タカシ、怖い顔をしてるよ。どうしたの?」
珠子が顔を覗き込む。
「ごめん。何でもないんだ。ちょっと考え事をしていただけだ」
夜遅く、操が外出から帰ってきたので、柏の部屋のソファーで眠っていた珠子は柏にお姫様抱っこされて、操の部屋へ連れていってもらった。
孝は、柏がいないそのタイミングで月美に思い切って聞いた。
「お母さん」
「ん、なあに」
「あのさ、変な事を聞いてもいい?」
「どうしたの」
「あのさ、おれの実の父親ってどんな人なの?」
「突然どうしたの」
「昼間、タマコと話していて、あいつは源さんと鴻さんのハーフだって言っていたんだ。それで、おれって半分はお母さんの遺伝子で、もう半分は誰の遺伝子なんだろうって考えたら気持ちがモヤモヤしちゃってさ」
「そう」
月美は力無く声を出した。
「孝、その話は明日まで待ってもらっていい?」
「……うん。わかった」
そう返事をして孝は自分の部屋へ姿を消した。
しばらくすると、操のところから柏が戻ってきた。
「ん?」
妙な空気の重さを感じた彼は、月美の傍へ急いだ。
「月美?」
食卓の倚子にぽつんと座って俯いている月美の隣に腰かけて、柏が彼女の肩に手をかけた。
「月美、どうした」
月美が顔をあげた。目が真っ赤になっている。
「どうしたの」
「柏君」
いつもしっかり者の月美が弱々しく言った。
「孝がね、自分の半分は私の遺伝子で、もう半分はどんな人だったのって突然聞いたの。あの子は前の苗字の山口は実の父親の苗字だと思っているわ」
「うん」
「柏君には全て話したけど、孝には本当の事を言っていないでしょ。って言うか言えないわ。山口は私の元々の苗字で、あの子の実の父親なんていないって事を話せる訳がない」
月美は泣き崩れ、柏が彼女の肩を抱いた。
もちろん、孝の実の父親がいないわけではない。ただ、できる事なら孝に事実を知られたくないのだ。なぜなら、孝は月美が25歳の時に強姦されて、その結果生まれた子どもだったから。月美を襲ったのは当時勤めていた会社の社長のひとり息子だった。その事を知った社長は月美にも非があると言い張ってわずかな退職金を渡して会社から彼女を追い出した。彼女には、手を差し伸べてくれる親も知り合いもいなかった。とうに成人している彼女だったが、どうしていいのかわからず、自暴自棄になり自分ができるのは死ぬ事だけだと思った。
そんな彼女を救ったのは、女性保護施設のスタッフだった。その人は四十代ぐらいのとても穏やかな女の人で、彼女がその保護施設で生活を送れるように手配してくれた。その時にはもうお腹の中の子どもは産むしかない状態で、月美自身なるようにしかならないと投げやりな状態だったのだ。それでも、彼女の身の周りの世話をしてくれているスタッフのおかげで気持ちが少しずつ落ち着き、不思議な事に彼女に母性が芽生え始めた。
手先が器用な月美は生まれてくる子のために産着を縫い靴下を編んだ。
そして、生まれた我が子を初めて抱いた時、信じられないくらい愛おしく思った。誰の子でもない。自分の自分だけの子どもだと思った。
「月美」
柏が彼女の肩を抱いたまま呼んだ。
「うん」
「あのさ、明日、俺が孝に話をしてもいいかな」
「柏君」
「大切なのは今とこれからだと思うよ。遺伝子云々は置いといて、孝は俺と月美のハーフだから」
「うん」
「あんまり泣くと、せっかくの美人が台無しだ」
「柏君、ありがとう」
翌朝、柏は孝の部屋へ入ると、まだ眠っていた息子の顔をしばらく見つめた。やがて孝は目を覚まし、自分を見ていた柏に驚いて口を開いた。
「お父さん」
「タカシ、おはよう」
柏は勉強机の倚子をベッドの傍に動かして、座った。
孝も起き上がり、ベッドに腰かけた。
「タカシ、おまえの半分について話をしようと思うんだけど」
柏が話し始めた。
「うん」
「まず、前の苗字の山口は月美の旧姓だ。タカシの実の父親の苗字じゃないんだ」
「そうなの?」
「ああ。月美はひとりでタカシを生んだんだ」
「なんで、ひとりで?」
その時、月美が部屋に入ってきた。
「その人は、孝の父親に相応しくなかったからよ」
と言いながら、彼女は孝の隣に腰かけた。
孝が月美の顔を見る。
「孝の母親は私だけ、父親は柏君だけよ。DNAが一致しなくても柏君が孝の唯一のお父さんでしょ」
月美の話に、孝は大きく頷いた。
更に月美は話を続けた。
「だって、孝も柏君も仕草や寝相や好きな食べ物が同じだもの」
「そうだ。タカシの半分は俺でできている」
柏が孝をまっすぐ見て言った。




