操、将来を考える
珠子を幼稚園へ送り、帰ってきた操が玄関の鍵を開けていると、後ろから声をかけられた。
振り向くと104号室の御年89歳の沢野絹を担当しているケアマネジャーの水田あけみが立っていた。
「水田さん、おはようございます。どうされました?」
「はい。沢野さんの今後のことでご相談があるのですが」
「わかりました。中へどうぞ」
操の部屋のソファーに二人が向かい合って座ると、水田が口を開いた。
「沢野さんですが、ヘルパーさんから何か聞いてらっしゃいますか?」
「特に何も。ヘルパーさんと顔を合わすタイミングもあまり無くて。絹さんに何かあったんですか?体調を崩されたのですか」
「いえ、私が定期的に伺うと彼女はお元気な様子で迎えてくれます。沢野さん、特養の申し込みをしているのはお話しましたね」
「ええ、特別養護老人ホームでしたっけ。なかなか空きが無いと仰ってましたよね」
操が過去に目の前のケアマネ水田から聞いていたことを話した。
「沢野さんは昔からこの辺りで暮らしてらしたので、彼女の希望でできるだけこの近辺の施設を探していたんですけど、娘さんの住まいに比較的近いところに空きができまして」
「娘さんの目の届くところならいいんじゃないですか」
操は正直な思いを口にする。
「沢野さんはこのアパートが気に入ってらして、今、説得しているところなんですが」
「その施設はどんな感じなんですか?」
「先日、沢野さんと娘さんと三人で見学に行ったんです」
水田はその時のことを事細かに語った。
その施設は、絹の娘の池田洋子の住まいから車で十五分ほどのところにあり、普通交通機関を使って行くこともできるそうだ。比較的新しい建物で、館内も清潔でスタッフとの話やそこに入居している人たちの様子を見る限りでは、とても良いのではと洋子が言っていたという。
「こちらとしては退去の連絡は今日の明日でなければ、ある程度急でも構いませんよ」
操の話に、水田はほっとした表情を浮かべた。
「そう仰っていただけると助かります。何しろ早い者勝ちなので。沢野さんは介護度数が低いのでこのチャンスを逃したく無くて」
こういう施設は介護度数が高い方が優先になるのだろうか。操もそう遠くない未来の自分を想像してしまった。
「決まるといいですね」
「はい。沢野さんが動けるうちに新しいところでの生活に慣れてもらいたいので」
「そうですね」
水田は、もし施設入所が決まったらすぐ連絡をします、と言って帰っていった。
午後二時、操は珠子を迎えにアパートを出た。
幼稚園へ向かいながら自分の将来について考えた。珠子が大人になって、いつかは嫁いで操のもとから巣立っていく。それから先はずっと独りで生きていくのだろう。
自分には自立した子どもたちがすぐ近くにいるし孫たちもいる。もちろん、彼らに面倒を見て欲しいわけではない。自分の事は自分で何とかしようと思っている。だが一抹の不安はある。果たして自分は沢野絹のように高齢になっても身の回りのことを、あまり人の手を借りずに暮らしていけるだろうか。
だが何よりも不安なのは珠子が傍にいなくなることに耐えられるのか。操は急に怖くなった。珠子の気配が全く無い日々なんて想像できない。巣立った後、たまには里帰りしてくれるだろうか。
自分はいつまであの笑顔を見られるのだろう。
「ミサオ」
「ミサオ」
「ミサオ!」
誰かに手を引っ張られ、はっとする。
いつの間にか幼稚園に着いていた。手を引っ張ったのは珠子で、心配そうにこちらを見ている。その後ろには、ばら組の中山先生が困ったような表情で立っていた。
「神波さん、どうされました?顔色が良くないですよ」
「いえ、すみません。ちょっと考え事を……」
「少しここで休まれますか?」
「大丈夫です。すみません。姫、帰ろう」
操は珠子の手を握って先生にお辞儀をし、幼稚園を後にした。
「ミサオ」
珠子が操を見上げる。
「なあに」
操も珠子を見る。
「ミサオ、私がもし結婚しても、ミサオの傍にいるよ」
珠子が真剣な顔をした。
「えっ、感じ取れちゃった?」
「うん。ミサオの様子がとってもおかしかったから、心配になったの」
「心配させちゃってごめんね」
「ミサオは私の居場所だもん。だからずっと一緒にいるよ。ミサオをひとりにしない」
珠子が真剣な顔で操を見つめる。
「ありがとう。まだまだ先の事なのにね。ちょっと考え過ぎちゃった」
「ミサオ、私はあのアパートの操のところに、ずーっといるからね」
珠子は何度も操といつまでも一緒にいるよと繰り返した。