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あの日あの時

「お父さん、仕事に行っていいよ。お母さんも付いてこなくていいから」


孝が言う。


「今日はおまえと一緒に行く。有給を取ったんだから、会社には行かない」


柏が言い返す。


「じゃあ、ここでのんびりしてなよ。お母さんと夫婦水入らずで、いちゃいちゃしてればいいじゃん」


孝がまた言う。


「いちゃいちゃは、孝を送って戻ってきてからでもできる」


柏がまた言い返す。


「親子でバカなことを言ってないで。さ、二人とも行くわよ」


月美が呆れた声を出す。


「はい」


柏と孝はしおらしく返事をする。

今日は、孝の通う第二小学校の始業式で、彼が交通事故に遭ってから久しぶりの登校だ。その時に負った怪我はまだ治っていないので、柏と月美は孝を学校まで送って行くことにしたのだ。


「やっぱり、おれひとりで行けるから。両親が付き添うなんて大袈裟だよ。もう六年生なんだし大丈夫だから」


孝は頑なに付いてこないでいいと言う。

月美は、左手を骨折していてランドセルを背負えない孝に、大きくて軽量なショルダーバッグをたすき掛けさせて言った。


「孝、聞いて。事故に遭ったところを通らなくちゃいけないのよ。ここでは大丈夫と思っても、その場所に行ったらパニックを起こす可能性があるって主治医が言ってたでしょ」


「そうだ。お願いだから俺たちに付き添わせてくれ」


「わかったよ」


両親の説得に負けて、孝は親子三人で登校することにした。

玄関の扉を開けると、ポニーテールにした髪を孝がプレゼントしたトンボ玉が付いたヘアゴムで巻き付けた珠子が立っていた。


「タカシ、おはよう」


「おはよう。タマコ、今日もありがとうな」


孝が右手で珠子の頭を撫でる。


「ヘアゴム、よく似合ってるよ」


彼が言うと珠子は嬉しそうに頷いた。


「気をつけていってらっしゃい」


「うん。いってきます」


孝の後から柏と月美も出てきた。


「カシワ君、月美さん、おはようございます」


珠子がちょこんとお辞儀をすると、柏も彼女の頭を撫でた。


「おはよう。いつもこうやって見送ってくれてるんだ。あの日も、ここでタカシを足止めしてくれて、ありがとうな。タマコ」


柏は心から感謝した。その後ろで月美も大きく頷いていた。


「カシワ君」


珠子が真面目な顔を見せる。


「どうした?」


柏が聞くと彼女は耳打ちをした。


「タカシは事故に遭ったうちの一人が亡くなったの知っているの?」


「いや、知らないと思う」


「あの場所に花とかが手向けられていると思うから、タカシを護ってあげてください」


「わかった。タマコ、本当にありがとう」


珠子は小学校に向かう親子三人の姿が見えなくなっても、しばらく、そこに立っていた。




大勢の小学生たちが学校に向かって歩いている。幅の広い歩道はランドセルを背負った子どもたちでざわめき、その中に呑み込まれるように孝たちは歩いていた。

そしてもうすぐ小学校の正門という辺り、終業式の何日か前に起きた交通事故現場にさしかかる。柏はすっと孝の左側に立ち肩を抱いた。できるだけガードレールを孝に見せないようにしたかったのだろうが、もちろん彼の目にそこは映ってしまう。

ひしゃげたガードレールだけではなく、その場所に手向けられた花束や飲み物やお菓子やぬいぐるみが目に飛び込んできた。

孝は思わず歩みを止める。彼の脳裏にあの時の出来事がフラッシュバックする。


あの日、珠子に引き止められて遅れた分を取り戻そうと彼は急ぎ足で学校に向かった。もうすぐ学校だ。何とか遅刻しないで済みそうだ。と思った時、目の前に信じられない光景が見えた。自分は歩道を歩いていたはずなのに、正面から車が向かってきた。なぜ、と考える間も無く車は前進してきた。彼の前にいた三人がまともに正面からぶつけられた。車はまだ止まらず彼も接触を免れず弾き飛ばされ地面に叩きつけられた。一瞬、珠子の悲しそうな顔が浮かんだ。そして、彼の頭の中には、なぜだ!なぜだ!なぜだ!この言葉だけが繰り返された。



「タカシ」


「タカシ」


「タカシ!」


柏が何度も名前を呼びながら顔を覗き込む。


「お父さん」


孝は、柏に呼ばれてあの時の自分から戻ることができた。


「タカシ、前に進めそうか?」


柏が聞いた。


「うん。大丈夫。お父さん、手を合わせてもいい?」


「もちろん」


孝がガードレールに向かって手を合わせる。

柏と月美も手を合わせ黙祷をした。


「行こうか」


柏が孝の肩を抱いて歩き出した。

小学校の正門には、今までよりも多くの教師が立って児童たちを迎えていた。その中に、孝のクラス担任の花沢世衣(せい)の姿があった。


「神波くーん」


孝に気づいた花沢先生が手を振った。


「先生、おはようございます」


孝が正面に立って挨拶し、柏と月美が続けて挨拶をした。


「神波君の顔が見られて、ほっとしました。それにしても、お父さん、お母さん、大変でしたね」


花沢先生がしみじみと言った。


「心配をおかけしました。まだ左手が不自由なので、気にかけていただけるとありがたいです」


柏が頭を下げた。


「もちろです。神波君、無理せずマイペースでやっていきましょうね」


先生が孝をしっかり見て言葉をかけた。


「はい」


孝は元気よく返事をした。

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