操、眉間の皺が薄くなる
病棟の待合スペースの一角、柏と月美と操が並んで座り、テーブルを挟んだ向かい側に加害者の父親と保険会社の事故担当者が座った。
紺色のブレザーを着た三十代ぐらいの保険会社の担当者が口を開いた。
「少し遅れてしまって申し訳ありません。こちらに伺う前に、三人の被害に遭われた方々の病院でお詫びをさせていただきましてこの時間になってしまいました。ええと、こちらの方は」
紺色ブレザーが操を見た。
「私は、伊丹という女の人の飲酒運転によって大怪我をさせられた神波孝の祖母、神波操です」
操が眉間に皺を寄せて言った。
保険会社の担当者は名刺を操に渡しながらお辞儀をした。
「私は今回の事故対応をしております相川と申します。この度は私どもの保険の契約者さんが神波孝様に大変な怪我を負わせてしまいまして、お見舞い申し上げます。当社としましてはできるだけの対応をさせていただきます」
受け取った名刺に目を通し、相川をチラッと見ながら軽く会釈をした操は、目線をその隣の人物に移し、じっと見つめた。彼女の目線にいたたまれなさそうに、相川の隣に座っている初老の男が口を開き
「あ、あの、この度は私の娘が事故を起こしてしまい申し訳ありません。私は伊丹円の父親の伊丹修治と申します」
と言って頭を下げた。
「飲酒運転で事故を起こした伊丹円さんの親御さんですか」
操が通る声でゆっくり言うと
「はい」
と伊丹は小さく返事をする。
事故担当の相川が助け船を出すように話をした。
「本来なら、事故を起こした当事者が謝罪に伺わなければならないのですが、今回は本人が警察から出られないため彼女の父親とお詫びに参りました次第で」
「そうですか。それにしても、伊丹円さんは何でお酒を飲んだのに運転したんですかね。免許を取るとき、飲んだら乗らないって習わなかったんですか。大体、あの時間のあの道路は車の通行禁止なのに、しかもわざわざ歩道を走るってどういう事なんでしょう」
操が被害者の家族として当然の不満を言った。
「返す言葉もございません」
紺色ブレザーの相川は深く頭を下げる。が、隣の伊丹は無表情にコクンと頭を動かしただけだった。
伊丹のこの態度に操は、この人の感情を読み取りたくないけど仕方ないな、と思いながら相手を凝視した。
しばらく沈黙の時間が流れた。
やがて、操が口を開く。
「伊丹さん、ちょっといいですか。カシワと月美さんは相川さんと話をしていて」
と、操は立ち上がると伊丹を促し、みんなから少し離れたところへ移動した。
そこで何かを彼にだけ聞こえるように伝えた。
その途端、さーっと血の気の引いた伊丹が目を見開いて操を見る。その場に立ち尽くした伊丹を背にして操は柏たちのところに戻った。
紺色ブレザー相川が伊丹に声をかけたが、彼はそこに立ったまま動かなかった。
仕方がなさそうに、相川は立ち上がると
「お忙しい中お話をさせていただきありがとうございました。入院治療費および慰謝料等につきましては孝様の怪我の回復状態を考慮しまして、改めてご相談させていただきます。本日はこれで失礼します」
深く一礼して、動かないでいる伊丹のところへ行き、背中をそっと押しながら帰っていった。
柏たちも孝の病室へ向かう。病棟の廊下を歩きながら
「母さん、伊丹の父親に何を言ったんだ?」
柏が聞いた。
操は、不機嫌な声で
「何だよ、このおばさん。俺はこの三日間、四つの病院を回って下げたくない頭を下げて疲れてんだよ。ああ俺って運が悪い。運が悪い。いい加減勘弁してよ。もう明日からはこの保険屋のお兄ちゃんに丸投げだ。あーかったるい。って、あのオヤジの心の中を本人に伝えただけ」
と言った。
「酒を飲んで交通事故を起こす娘が娘なら親も親だな」
柏はため息混じりで話しながら、
「タカシは後遺症残らないよな。うん、アイツは大丈夫だ」
自分に言い聞かせた。
三人が病室に戻ると、ベッドをフラットな状態にして、孝は起きあがっていた。が、珠子の姿が見えない。
点滴のルートに繋がっている彼の右手は掛け布団を撫でている。
「タカシ、起きているんならベッドをギャッジアップすればいいのに」
柏がコントローラーを掴もうとすると、孝がそれを制した。
「このままで良いんだ。ここにタマコがいるんだ」
彼は右手を布団から離して言った。
「ここをそっとめくって」
柏が孝に言われた通り、掛け布団の右側をそっとめくり上げると、珠子がこちら向きで横になり寝息を立てていた。
「あらあら眠り姫だわ」
操の眉間は力が抜けて優しい顔に戻った。
「サイドレールを外してもらってたから、こいつが転がり落ちないように押さえていた」
と、言う孝の顔が大人びて見えた。