珠子の居場所
「タカシ、守れなくてごめんね」
珠子はベッドに横たわる孝の右手を握りしめ涙をこぼした。
「おまえは守ってくれたよ。おれが油断したから怪我をしたんだ」
「そうじゃない」
珠子は、それ以上は声を出せなかった。
あの時あと三分、いや、あと一分、孝を掴んだままでいれば車にぶつけられる事はなかったのだ。
事故はいくつかの条件が運悪く重なった事で起こる。本当ならその条件の一つを珠子は取り除けたのだ、あの時に。
だがあの時、彼女は自分の掴んだ手を退かされて孝の手を放したままにした。もう一度掴んで、うざったい子と思われたくなかったのだ。嫌われたくないと思った。珠子にとって孝の傍は大切な居場所で、だからこそ引き止めるべきだったのに目先の事だけを考えてしまって、結局このような結果になった。
「タマコ」
「タマコ」
「タマコ」
はっと珠子が我に返ると、孝が見つめていた。
「大丈夫か?」
「うん。タカシごめんなさい」
珠子は、孝の手を握っていた手を離して深くお辞儀をすると病室を出ていった。
「タマコ!」
孝は大声をあげた。
「神波さん、どうしました」
孝の声に看護師が病室に入ってきた。
「いえ、何でもありません」
小さな声で孝が答えた。看護師は脈拍や血圧のモニターと点滴の状態を確認しながら、安静にしていてくださいね、とやんわり注意をして部屋を出ていった。孝は天井を見つめて、ため息をついた。
しばらくすると、彼の両親と祖母がカンファレンス室から戻ってきた。
「タカシ、気分はどうだ」
柏が彼の頬をそっと撫でながら聞いた。
「うん、大丈夫。少し左手が痛いかも」
孝が何とか笑顔を作る。
「痛かったら我慢しないで、ナースコールを押せよ」
「うん。タマコは?」
孝が柏を見る。
「病棟の待合スペースにいる」
「ここに連れて来てくれない」
「わかった」
柏が部屋を出ようとすると、操が自分が行く、と目で合図をした。
病棟の待合スペースは、お見舞いに訪れた人とベッドから離れられる入院患者が面会したり、これから入院する人や退院する人が病院スタッフと打ち合わせをするために使われている。
今は平日の午前中なのでお見舞いの人は殆どいない。
がらんとした中に並べられた倚子の一つに、珠子は俯いて座っていた。操はその隣に座ると、そのまま何も言わず顔を正面に向けて静かな時が過ぎていくのを見ていた。
やがて、珠子が片手を伸ばして操の太股の辺りに乗せた。その手を素早く握りしめ、操はチラリと珠子を見た。彼女は俯いたままだった。
「姫」
操が口を開く。
「姫、タカシ君があなたに会いたいって」
珠子は黙ったままでいる。
「姫、あなたは彼を助けたのよ。だって…」
「助けてない。嫌われたくなくて…タカシが私の握った手を退かしたとき、もう一度握ればよかった……しつこいって思われても」
操の言葉を遮るように珠子が小さく言った。
「タカシに嫌われたくなかったから……私がいても良い場所を無くしたくなかったの。でも、そのせいでタカシは死ぬところだった」
「タカシ君の傍が姫の居場所なのね」
「うん。タカシの傍とミサオの傍が私がいて良い場所」
操が握っていた珠子の手を両手でしっかり包んだ。
「姫がタカシ君に短い時間であっても足止めして注意を促した。だから、彼は生きているし、あなたに会いたいって言ってる」
操の話に珠子が顔をあげる。
「彼も、あなたに傍にいて欲しいって思ってるわ」
「そうかなぁ」
珠子が呟く。
「そうよ。姫が傍にいるだけでタカシ君は心安らかな幸せな気持ちになると思うわ。怪我の治りも早くなる…かも知れない」
「そうかなぁ」
「そうよ。彼が待っているわ。行きましょ」
二人は手を繋いだまま倚子から立ち上がると孝の病室に向かった。
部屋の扉を開けて珠子が孝のベッドへ向かった。孝が顔をこちらに向けて右手を伸ばしている。珠子がその手をそっと握った。
「タマコ、傍にいてくれよ」
「うん」
頷いた珠子は、やっと孝と目を合わせることができた。