珠子の後悔
交通事故は、小学校の正門まであと十メートルというところで起きた。
門の前で生徒を迎えていた当番の教師三人もすぐに駆けつけ、車の下に人がいないか確認し、被害にあった子供たちを動かさないようにしながら救急隊員の到着を待っていた。
様子を見に来た近所の大人たちは、交通ルールを無視して事故を起こし呆然としている若い女の運転手に向かって怒鳴ったり、被害に合わなかった子供たちに現場の様子を見せないように正門まで誘導し連れて行ったりした。
正面と左側面が大破して止まっている事故車の前に、被害にあった四人の子供の姿があった。頭から血を流して倒れている女の子、ふくらはぎの辺りが異常に膨らんでいて痛いと呟きながら意識が朦朧としている男の子、厚手の服の何か所かがぼろぼろに擦り切れて血が出ている男の子、そして左手を庇うように右手で覆って座り込んでいる孝がいた。
集まった人だかりの間を縫って、珠子が孝に駆け寄った。
孝はばつが悪そうに珠子を見て小さな声で言った。
「気をつけていたんだけど、巻き込まれちゃった」
珠子は声を出すことができず、涙を流しながら孝を見つめた。
救急隊が到着すると、
「お嬢ちゃん、離れたところにいてくれるかな」
と言いながら、珠子をひょいと持ち上げ退かそうとした。
「私、神波孝の家族です!」
珠子が救急隊員に叫んだ。
「わかりました。でも、まず怪我の状態を確認して救急車に運ぶので、少し離れてお待ちください」
と、隊員は丁寧に言うと孝の傍で膝をついて、名前と生年月日と住所を何度も聞きながら彼の体を調べた。
珠子は操に手を引っ張られ、救助の邪魔にならない所で待った。
操は救助の様子を見守り、孝がストレッチャーで救急車に乗せられると、そこへ珠子を連れて走り寄る。
「神波孝の祖母の神波操と申します」
救急隊員に伝え、搬送先の病院を確認して孝の母の月美に電話をかけて伝えた。月美は車で直接病院へ向かうと言った。
操は珠子と一緒に救急車に乗り込み救急車はサイレンを鳴らし走り出した。
孝を乗せた救急車が病院に到着すると、すぐに処置室へ運ばれた。その間に操が孝の父、柏に連絡を取った。柏は月美から電話をもらい、タクシーに乗ってこちらに向かっているとの事だった。
処置室前の通路の長椅子に戻ると、小さな背中を丸めて俯いた珠子が座って微動だにしないでいる。
「やっぱり私がついて行けばよかった」
ぼそっと珠子が口を開く。
「姫がタカシ君を短い時間でも足止めしたし、気をつけて登校をしていたでしょうから、きっと大丈夫。彼の被害は最小限のはずよ」
操は、小さな体が更に小さく見える珠子に静かに言い聞かせる。
そして、月美と柏も到着した。
「母さん、タカシは何でこんな事に……それでここに運ばれた時はどうだったの?」
柏はがっくりと落ち込んだ様子で、ぼそぼそと聞いた。
「カシワ、タカシ君はきっと大丈夫。彼は強い子だから。でも、左手を負傷したみたいだったわ」
操は自分が見た状況を柏と月美に話した。
月美はずっと動かないでいる珠子の隣に座ると、そっと肩を抱いた。
「珠子ちゃん、孝に車に気をつけてって言ってくれたのね。ありがとう。あの子は身軽で一人の時は落ちつきなく走り出したりするから、普段通りに登校していたら、もっと酷い事になっていたかも知れないわ」
珠子は泣きすぎてぶくっと腫れた瞼で月美を見た。
「私、タカシに危険が迫っていたのがわかったの。だからくっ付いていたかった。でも、あんまりしつこくしてタカシに嫌われると困るから注意だけした。嫌われてもいいからタカシの手を離さなきゃよかった」
「大丈夫。孝は珠子ちゃんに守られているわ」
月美は珠子の肩をしっかり抱いた。
柏も珠子の隣に腰かけると、
「タマコ、タカシに車に気をつけるように言ってくれてありがとうな」
彼女の頭を撫でた。
月美、珠子、柏、操が処置室前の長椅子に座って一時間が過ぎた頃、孝の治療をした医師が四人の前にやって来た。みんな一斉に長椅子から立ち上がり、医師の顔を見た。
「医師の橋本と申します。神波孝さんですが、CTとレントゲンを撮りました。頭と内臓に問題はないと思いますが、交通事故なので念のためどこかにダメージを負っていないか入院して経過観察をさせてください。それで、一番の問題は左手です。左手の手首から肘にかけて骨折と靭帯が傷ついています。骨折は関節ではないので、おばあさまから同意書にサインを頂きまして手術で折れた部分をプレートで固定しました。手首の靭帯部分は中に溜まった血液を抜いて添え木で固定しています。詳しい話はカンファレンス室でご説明します」
橋本医師は軽くお辞儀をしてどこかの部屋に入っていった。
その直後、看護師に声をかけられた。
「神波孝さんのご家族様ですね。孝さんの病室にご案内します」
看護師について行き、術後の患者が入るナースステーションの隣の部屋に入った
ベッドに横たわった孝は麻酔の影響でぼうーっとしていたが、柏と月美の姿を見て起きあがろうとした。両親は慌てて、それを制した。
「タカシ、動いちゃだめだ」
「お父さん、ごめん」
孝が小さな声で謝る。
「おまえは何も悪いことをしてないだろ」
「タマコの言うことをちゃんと聞かなかった。あいつ、おれが出かけるのを遅らせようとしたんだ。でも遅刻したくなかったから、振り解いて学校に行ったんだ。あいつに言われた通り一応、車に気をつけてはいたんだけど」
そう言って孝の目は珠子を探した。
「お母さん、タマコはいるの?」
孝に聞かれて月美は頷きながら、後ろを向くと手招きした。ゆっくりと珠子がベッドに近づいた。孝が右手を差し出した。珠子がゆっくりその手を握った。
その時、看護師からカンファレンス室へと呼ばれたので、みんな病室を出ていった。
二人だけになった部屋で、手を繋いだまま孝が珠子を見つめた。珠子も孝を見つめ小さな声で言った。
「タカシ、守れなくてごめんね」