同い年の友だち
朝七時、珠子は朝食をとっていた。
「姫、今日は八時半にここを出るわよ」
操がお弁当を準備しながら言った。
「うん。わかった」
「姫、向こうでは、はい、って返事してよ」
「うん。わかってる」
珠子は口の端に付いたピーナツバターをペロリと舐め取りながら言った。
小さくため息をついて、操は弁当箱に蓋をした。
朝ごはんを食べ終わった珠子は歯を磨き、ヘアブラシと孝からもらったヘアゴムを持って操のいるキッチンへ戻った。
「ミサオ、髪の毛お願い」
珠子の柔らかな髪をとかし、後頭部の高い位置でひとつに纏めると、トンボ玉の付いたヘアゴムで括った。
「はい、できたわよ。姫、可愛いわ」
操に言われて、珠子はにっこり笑った。
午前八時半、オレンジ色のトレーナーとデニムのオーバーオールに水色のボアジャケットを着た珠子は操とアパートを出ると、四月から通う第二幼稚園に向かった。
今日は、入園前の一日体験の日なのだ。
二人は手を繋いでゆっくり歩き二十分程で幼稚園に着いた。園の建物は小学校と同じ敷地の中にあり、正門もそれぞれにあって、珠子たちは『第二幼稚園』と彫られた大きなプレートが埋め込まれた門の前までやって来た。
通園の時間帯なので保護者に連れられた園児たちでとても賑やかだ。可愛らしいアップリケがついたエプロン姿の保育士と思われる数人が園児とその保護者に向かってにこやかに挨拶をしている。
そのうちの一人に操は声をかけ、珠子の両肩に手を乗せた。
「おはようございます。入園前の体験で来ました、神波珠子です」
「おはようございます。話は伺っています。今日は年中さんクラスのひまわり組でお友だちと過ごしていただきます。私はクラス担任の中山ヒロミと申します」
黄色いエプロンにひまわりのアップリケをつけた、中山と名乗ったふくよかな女性が明るい声で応対してくれた。
操がよろしくお願いします、とお辞儀をすると、黄色いエプロンの彼女はしゃがんで珠子と目線を合わせ、
「神波珠子ちゃん、おはようございます。第二幼稚園へようこそ!私は、珠子ちゃんが今日一日みんなと過ごす、ひまわり組の担任の中山ヒロミです。よろしくお願いします」
軽く会釈をして笑顔を見せた。
珠子は彼女としっかり目が合わないように相手の鼻の辺りを見ながら
「神波珠子です。5歳です。中山先生よろしくお願いします」
と、子どもらしい挨拶をした。
珠子は上履き、操はスリッパに履き替えて建物の中に入ると、ひまわり組に案内された。
「保護者の方…ええとお名前を伺ってませんでしたね」
中山ヒロミに言われて操は慌てて自己紹介をする。
「申し遅れました。珠子の祖母の神波操と申します。今後も私が送り迎えをします」
「承知しました。それでは神波さんはこちらに座って、これからのクラスの流れをご覧になっていてください」
教室の後ろの隅に用意された折りたたみ倚子を勧めたられた。言われた通り操が倚子に腰を下ろすと、中山先生は珠子と手をつなぎ
「それでは、珠子ちゃんはみんなのところに行って自己紹介をしましょう」
と話すと、はい、と大きな声で彼女は返事をした。
そして小さな倚子を並べて座っているクラスの園児たちの前に立った珠子は、中山先生の簡単な説明のあと挨拶をするように促されて声を出した。
「ひまわり組のみなさん、おはようございます。神波珠子です。今日はよろしくお願いします」
と言ってお辞儀をした。ひまわり組の子どもたちも、まるで練習をしたみたいに、多分練習したのであろう声を揃えて
「おはようございます。一緒に遊びましょう」
と返してくれた。
その後は珠子も席に着き、先生が絵本を読み聞かせしたり、歌を歌ったり、簡単な数の勉強をしたりして午前の時間は過ぎて言った。
珠子の隣に座っていたショートヘアのまつげが長い子が自分の名札を見せながら話しかけてきた。
「珠子ちゃん、私は永井葵です。よろしくね」
珠子も教室に入ってすぐにつけてもらった名札を見せて
「葵ちゃん、仲良くしてね」
と笑顔を見せた。ただ、しっかりとは目を合わさず、鼻の頭や眉間の辺りを見るように気をつけた。
「珠子ちゃん、ここに来るのは今日だけなの?」
「四月からは毎日通うよ」
「そうなんだ。私たちは四月になると、ひまわり組のみんながそのまま、ばら組になるの」
「それじゃ私も、ばら組になるのかな?」
「そうだといいね。私、珠子ちゃんとお友だちになりたい」
「嬉しい。私も葵ちゃんと仲良くなりたい。お友だちになってね」
「うん」
二人が楽しそうに話をしていると、後ろからいかにもこの教室の番長っぽい態度の男子が
「おまえ、タマゴって言うんだ。変な名前」
馬鹿にする様に鼻で笑った。
「タマゴじゃないよ。珠子ちゃんだよ」
葵が言う。
「おんな男は黙ってろよ」
男子の言い方にカチンときた珠子は
「あんたは何て名前なの」
と言いながら彼の名札を掴んだ。
「勝手に触るなよ!」
「大沢賢助クン。賢い助平、賢いスケベ」
スケベと珠子は繰り返した。
「な、何だよ。わ、訳がわからねえよ」
と言いながら賢助は、がに股でおもちゃの棚の方へ行ってしまった。
「珠子ちゃん、私を助けてくれてありがとう」
葵が珠子の手を取った。
「別に助けたわけじゃないけど、あの子の言い方が納得できなかったの。葵ちゃんこそ私の名前のことで助け船を出してくれてありがとう」
珠子が笑顔をむけた。
お昼は持参したお弁当を食べ、少し休憩した後、みんなで床を掃除して小さな布団を敷くと三十分程昼寝をした。
昼寝から起きると教室から園庭に出て、園児専用の遊具が設置されたスペースで遊んだ。
午後二時になり、保護者が迎えにやって来てひまわり組のみんなは自宅へ帰っていく。
二台ある送迎バスも園児たちを乗せて出発した。
珠子と仲良くなった永井葵も、母親らしき人が迎えに来て、こちらに向かって手を振りながら幼稚園をあとにした。
帰っていくみんなに手を振り、一人残った珠子は、教室の隅で足の屈伸や体の伸びをしていた操のところに駆け寄った。
「ミサオ、体が痛いの?」
心配そうに聞いた。
「一所でじっとしていたから、体が固まっちゃったの。でも、大丈夫」
操が首をぐるんと回していると、
「神波さん、珠子ちゃん、どうでした?お教室の体験」
中山先生が声をかけた。
「楽しかったです。お友だちもできました」
珠子が元気に返事をした。
「それは良かった。どんなお友だちができたの?」
「はい。永井葵ちゃんです」
珠子にとって初めての同い年の友だちだ。
「葵ちゃんね。あの子はとっても可愛いんだけど、男の子なのは知ってる?」
中山先生は不安気に聞く。
「直接聞いてないけど、わかります。私は全然気にならない。葵ちゃんはとっても優しい子です。四月からも仲良くしたいです」
珠子は心からそう思った。