名取さんの野菜を食べながら
久しぶりに108号室の住人、名取丈に声をかけられて珠子は名取の部屋の前の庭を耕した二坪ほどの家庭菜園で草取りを手伝った。名取は104号室の沢野絹よりは若いが、79歳になる老人だ。
今日は天気が良く、風も南寄りで三月の初めにしては暖かい。
「珠子ちゃん、手伝ってくれて助かるよ」
名取は額の汗を拭いながら言った。
「名取さんの畑は土がふかふかだから草を抜くのが楽です」
黄色い長靴をくるぶしまで土に沈めながら珠子は笑顔を見せた。
「珠子ちゃんは四月から幼稚園に通うんだって?」
「はい」
「こうやって手伝ってもらうのも今日が最後かな」
「土曜日と日曜日ならお手伝いできます。声をかけてください」
「わかった。珠子ちゃんが通うのは第二小学校の中にある幼稚園かな」
「はい。タカシの学校と同じところです」
「タカシ?ああ孝君か。あんたとあの子は仲が良さそうだな」
「はい。仲良しです。一緒に通います」
「そうか。まあ幼稚園を楽しめばいい。珠子ちゃんは優しい子だから友だちもすぐできるだろう。さて、すっかり雑草が無くなったな」
名取は20リットルのゴミ袋いっぱいの雑草を取り除けて満足そうだ。
「そう言えば、珠子ちゃんが畑を手伝ってくれる時、必ず神波さんも見守って傍にいるのに今日は姿が無いな」
名取が素直な疑問を口にすると、珠子が力無く答えた。
「はい。最近ミサオは元気がありません」
「まっ、生きていればいろんな事があるさ。珠子ちゃん、今日も手伝ってくれてありがとうな」
そう言って、小松菜6株と大根4本を抜くと、小松菜を珠子に抱えさせ名取は大根を抱え、操の部屋の前まで歩いた。
その気配を感じたのか、操が南側の掃き出し窓から出てきた。
「名取さん、こんにちは」
「やあ、神波さん、珠子ちゃんが草取りを手伝ってくれて助かったよ。しゃがむのに時間がかかって、そこから立ち上がるのはもっと大変でな。彼女の膝と取り替えて欲しいよ」
名取は苦笑いをしながら、手伝ってくれたお駄賃ねと立派な葉の付いた大根を操に抱えさせた。
ずっしりとした大根を落とさないように抱え込んだ操は
「本当に、私も柔軟な関節が欲しいです」
と情けない顔をしながら、いつもありがとうございますと、お礼を言った。
操は2本を足元に置いて、残りの2本を抱えたまま隣の柏の部屋の窓をゴンゴンと叩いた。それに気づいた月美が掃き出し窓を開けて出てきた。
「月美さん、こっち側からごめんね。鮮度の良い内に渡したかったから」
名取からもらった大根をおすそ分けと言って月美に渡した。
「立派な大根ですね。葉っぱがたくさんで、嬉しいわ」
「スーパーじゃ葉っぱが付いてないものね。あと、小松菜もあるから大根をキッチンに置いてきて」
と操が言うと、月美はシンクに土と葉の匂いがする大根を置きに行った。すぐに窓の外に戻ると、
「これどうぞ。ノッシーにもあげてください」
珠子が採れたての小松菜を3株、彼女に渡した。
「ありがとう。珠子ちゃん、三時ごろにお義母さんとこっちに来て。ケーキを焼いて待ってるわね」
と言って、月美はキッチンへ向かっていった。
「姫、小松菜のおひたし食べる?」
操が茹でた小松菜を冷水に取りながら聞いた。
「うーん、ベーコンと炒めたのが食べたい」
あっさりより、コクのある味の方が珠子は好きだ。彼女のリクエストに応えて一株分はベーコンソテーになった。大根は葉の付いていた側を薄切りにしてサラダにした。
「ミサオ、大根の葉っぱと皮は細かーく刻んで、きんぴらみたいにするとふりかけになるって前に月美さんが言ってたよ」
おやおや、この子がそんなことを覚えたなんて凄いと思いながら
「お昼を食べたら一緒にそれを作りましょう。姫、作り方をおしえて」
操は、先生ご伝授くださいと頭を下げた。
擽ったそうなもじもじした態度で
「うん。教えてあげる」
珠子が頷いた。
二人が食卓で向かい合って昼ごはんを食べていると、
「ミサオ」
珠子が箸を置いて正面の操を見た。かしこまった態度に操は緊張する。
「どうしたの」
「私はミサオが大好きだよ」
「……うん」
「私はミサオから離れたいなんて思ってないよ」
「……うん」
「私はミサオの初めての孫で良かったって思ってるよ。だって私、ミサオを独り占めしてるんだもん」
「……うん。姫、こっちに来て」
操は珠子を呼び寄せると膝の上に向かい合うように抱き上げて、ぎゅっと抱きしめた。いろいろな感情が渦巻いて言葉が出せない操に珠子が言った。
「私は、今までもこれからもミサオが一番好き」
操は感涙の嗚咽を堪えながら口を開いた。
「ありがとう。姫、ひとつ聞いていい?」
「いいよ」
「私とタカシ君だと、どっちが一番かな?」
操は嬉し泣きがバレないように珠子に少し意地悪な質問をした。
すると、彼女は少し悩んで
「デッドヒート」
と答えた。