操もパンクしないために
最近、104号室に朝と夕方の一日二回アパートの入居者ではない人が出入りしている。
ヘルパーの金井育子と家田ゆう子の二人が交代で、この部屋の住人である御年89歳の沢野絹の介助に訪れているのだ。
もちろん絹の娘の池田洋子とケアマネジャーの水田あゆみから相談があり、大家の操も認知している。
ケアマネジャーの話では、特別養護老人ホームの申し込みはしてあるが空きが無く順番待ち状態だと言っていた。絹自身は現状、最低限の身の回りのことはできているが、年齢的にいつまで続けられるかわからない。
今朝は金井育子が絹の介助に訪れて一時間程すると部屋を出た。それと同じくして、操と珠子が自分たちの部屋から出てきた。
「おはようございます。絹さんはお元気ですか」
操が挨拶をした。ヘルパー金子も笑顔で
「大家さん、おはようございます。沢野さんは、お元気です。じっとしていられないみたいで今朝もフロアワイパーをかけてました。転倒が心配なんですけどね。それでは、また夕方に伺います」
と、言ってアパートを後にした。
「絹さん元気でよかったね」
珠子が操と顔を見合わせて微笑んだ。
「そうね。だけどヘルパーさんの言うように転倒が心配ね」
「私もよく転ぶよ」
と、言う珠子に
「姫が転ぶのと、絹さんや私が転ぶのは違うのよ」
操が、全然違うのと力を込めて言った。
「何が違うの?」
「姫が転んでも大抵、膝や手を擦り剥く程度だろうけど、私以上の年齢の人が転ぶと骨折しちゃう可能性が高いの」
「えっ、骨が折れちゃうの?」
珠子が驚いた顔をした。
「そうなの。私も転ばないように気をつけなくちゃ」
「それじゃミサオが転ばないように私が手をしっかり握ってあげる」
珠子に手を繋いでもらい、目尻を下げた操はアパートの階段を上った。二人は鴻と元太のところを訪れたのだった。
「お義母さん、珠子、おはようございます。さ、あがってください」
元太を抱いた鴻が笑顔で迎えた。
「コウちゃん、姫の入園手続きありがとう。この間、面接も無事終わったわ。今は紙の書類じゃなくてウェブ手続きなのね。私にはさっぱりわからなかった」
操が情けない顔をした。
「役所もウェブの方が処理が楽なんですかね」
元太を操に預けて、鴻がお茶を淹れながら言った。
「ところで珠子、本当に幼稚園に行きたいの?」
鴻は珠子と完全には目を合わせないように目線を泳がせながら、彼女の意思を確認した。
「うん。もし幼稚園に行かなくても、その次の年には小学校に通うんでしょう。それなら今のうちに顔見知りをつくっておいた方がいいかなって思ったの」
珠子は、無表情な顔で答えた。
その様子を見ていた操は、やはり珠子が自分から離れようとしているのだと感じた。
夜、珠子がシロクマのぬいぐるみを抱きしめて寝入ったのを確認して、操は珠子の父の源に電話をした。
──はい。母さんどうした?
「源、こんな時間にごめんね。今、話をしても大丈夫?」
──ああ、平気だよ。
「姫の入園手続き、無事終わった。コウちゃんに殆どやってもらっちゃった」
──ああ、鴻から連絡をもらったよ。親なんだから当たり前だ。
「そうか……そうね」
──どうした?何か元気ないな。
「うん。姫は、ここにいるのが辛いみたい」
──どういうこと?
「今まで大人に囲まれて過ごすのが楽しいって言って、あんなに行きたがらなかった幼稚園に急に通いたいって言ったのよ」
──ただ気が変わったんじゃないのかな。
「ヒイラギの子どもが生まれた日の夜に、あの子が呟いてたの。元太も千春ちゃんも普通の子どもなのに自分だけ普通じゃないって。あの子ね、私の初孫だから普通の子どもになれなかったのかなって」
──そんな…珠子はごく普通の可愛い女の子だ。
「姫の眼差しの力は正直普通じゃないわ。コウちゃんも相変わらず姫と目を合わせられないし。それから、この間あの子スカウトされたじゃない」
──そうだったな。
「是非、モデルとかタレントをやらないかって、ここに事務所の偉い人が来たの。フリーペーパーの表紙の姫の目が凄く良いって」
──先方は本気だったんだな。
「でもね、実際にあの子と目を合わせたら、その人震えが止まらなくなって、結局諦めたの」
──そんなことがあったんだ。でも、珠子の特異な部分は一種の才能だと思うよ。
「私もそう思っている」
──もう少し大きくなれば納得できるようになるよ。母さんもずっと言ってたじゃない。
「そうね」
──計算が早いとか暗記力が凄いのと変わらないんだろう、母さんや珠子の力ってのは。
「そうよ」
──しばらくの間、母さんは辛いだろうけど、あいつに対して今まで通り普通に接してくれないか。あいつは少し他人行儀な態度を見せるかも知れないけど、母さんは気にしない…ふりでいいから。
「わかった」
──珠子は賢いから大丈夫だよ。
「うん」
──泣くなよ、母さん。
「泣いてないわよ。鼻水が出ただけ」
──きったねーな。鼻をかめよ。
「うん」
──俺、入園日行けないけど珠子を頼むな。
「うん」
──ただ聞くことしかできないけど、いつでも愚痴ってくれ。黙っていて、お腹の中にいろいろ溜め込むとパンクしちゃうからな。
「わかった。ありがとう。それじゃ、おやすみ」
──おやすみ。
少し前に珠子に言ったのと同じことを源に言われちゃったなと操は思った。