ひとつ目の巣立ち
「あの子が幼稚園に行きたいって言ったんですか?」
元太を抱いた珠子の母の鴻が驚いた顔をした。
「今まで、源ちゃんや私が勧めても、首を縦に振らなかったのに」
「そうよね。だけど昨日、姫が突然言い出したの」
昨日、美雪と千春のお見舞いから帰った珠子が、操に宣言するように幼稚園に行くと言ったのだった。
「お義母さんは、どう思います?」
「私は姫が行くって言うのを止める理由はないと思ってる。あそこの幼稚園はタカシ君の通っている小学校の敷地内だし」
「これからだと年長組です。年少組から通っている子どもたちは、既に仲のいいグループができあがっていると思うんです。そんなところに珠子は入ることができるのかしら」
鴻は、人の深い部分を見てしまう珠子が友だちの輪に入れるのか心配だった。
「姫は前から自分が普通の子どもではないって悩んでいたわ。そして元太や千春ちゃんを見て、最近その思いが強くなったみたい」
操は、ため息混じりに言い、更に話を続ける。
「だからあの子、思い切って今までと違う環境に身を置きたいと思ったのかもね。それでコウちゃん」
「はい」
「入園の手続きを取りたいの。コウちゃんから源に伝えてくれる?役所に行ったり書類を揃えるのは私がやるから、それに記入してくれるかしら」
「それは、もちろん記入しますし、私のできることは何でもやります」
珠子が幼稚園に通うのは良いことだけれど、操も鴻もいろいろな意味で不安が膨らんだ。
お昼、操と珠子は手作り玉子サンドと野菜ジュースとバナナを食べていた。
「姫、明日役所に行って、あなたの幼稚園入園の手続き相談をしてくるけど」
操が珠子の顔をじっと見ながら言った。
「うん。お願いします」
珠子はサンドイッチにかぶりついて、すき間からはみ出た玉子をぺろりと舐めながら、操を見つめ返した。
「姫、幼稚園には、あなたみたいに物事をしっかり考えれられる子どもは少ないと思うの。それに、あなたと気が合わない子どもたちがいるかも知れないわ」
「うん。わかってる」
「心の準備はできているの?」
操が不安そうな顔をする。
「ミサオ、心配してくれてありがとう。でも大丈夫」
珠子は笑顔を見せた。
「だけど、ミサオが送り迎えをしてくれるんでしょう?あと、お弁当も。お世話になります」
珠子が頭を下げる。
「そんなこと言わないで、姫。なんだかあなたが遠くに行ってしまう気がする」
操は寂しそうに言った。
午後三時を回った頃、孝がやって来た。昨日の珠子が気になって、様子を見に来たのだった。
「おばあちゃん、タマコと仲直りできたの?」
玄関で操に尋ねた。
「ん?とにかくあがって」
孝の問いかけにはっきり答えず、操は彼に部屋の奥のソファーに座ってもらった。
「タマコはいないの?」
腰を下ろしてすぐ、孝が大きな声で聞いた。
「いるよ!」
やはり大きな声で珠子が答えて寝室から出てくると、孝の隣にボンと勢いよく座った。
珠子の勢いに孝が驚いてのけ反った。
「タカシ、びっくりした?」
「うん。びっくりした」
目が点になった孝を見て珠子が、あははと笑った。
「それで…」
孝は心配で様子を見に来ているのにと、少しむっとしながら
「それで、おばあちゃんに謝ったのか?」
と聞くと、珠子は「うん」と頷いた。
「あのね、タカシ」
「どうした?」
「私、幼稚園に行くの」
「そうなのか」
「うん」
その時、操がホットココアをお盆に乗せて持ってきた。それをテーブルに置いて珠子と孝の向かい側に座った。
「タカシ君、姫は四月から幼稚園に通う予定なので、よろしくね」
「本当?」
「ええ。校庭と体育館は共有なのよね」
「はい。運動会は小学校と幼稚園の合同でやるよ。じゃあタマコが走るところを見られるんだ」
嬉しそうに孝は珠子を見た。
「タカシと一緒に通えるんだよ。手を繋いでいけるのね」
珠子も嬉しそうだ。
「姫、残念だけど小学校と幼稚園では始業の時間が違うから、私と手を繋いで通うことになるわ」
操が言うと、
「そうか。帰るのはタカシと一緒かな?」
珠子が期待を込めて質問した。
「明日、役所に相談に行っていろいろなこと
を聞いてくるから、今は答えられないわ」
「ミサオ、明日のお出かけ私もついて行って良い?」
「結構待たされたり、あっちこっちの窓口に行ったりするけど大丈夫?」
「うん。平気」
「わかった。明日一緒に出かけようね」
一週間弱で入園のための全ての手続きは無事終わり、珠子は四月から孝の通っている第二小学校と同じ敷地にある第二幼稚園に通園することになる。
書類関係の手続きはウェブのみだったので鴻に任せて、すぐに終わった。公立幼稚園だが中途入園のため、珠子は簡単な面接を受けた。付き添った操は、珠子のもの言いが面接の職員に、生意気な子ね!と思われないか心配だったが卒なく子どもらしい受け答えをして無事終了した。
その帰り道、操と珠子は手を繋いで歩きながら四月からのことを話した。
「これからは、姫とこうやってこの道を歩くのね」
「ミサオ、これから毎日私につき合ってもらうのが申し訳ないです」
「姫、最近他人行儀だわ。もっと私に甘えて欲しいな。私はあなたのおばあちゃんなのよ」
「うん。ありがとう」
やっぱり姫との距離を感じてしまう操だった。
その時、
「タマコ!おばあちゃん!」
後ろから元気な声に呼ばれた。振り返らなくても孝だとすぐわかった。
「いつも今ごろ帰るの?」
操が聞くと
「今週は掃除当番だから、いつもより少し遅いんだ」
二人を抜いて前に立った孝は答えながら片手を伸ばした。それに気づいた珠子は、操と繋いでいた手をそっと放し、孝と繋いで微笑んだ。
操の前を仲良く並んで歩く二人を見て、自分から珠子がどんどん離れていくように感じて胸が苦しくなった。