春を迎えた子
二月に入って、石井柊は落ち着かない日々を過ごしていた。
彼は職場で珍しく兄の神波柏と同じエレベーターに乗り合わせた。
彼らは、同じ建設会社に勤めているが所属している部署が違う。柊のオフィスは建築部門で、設計部門の柏がいるオフィスとはフロアも違うのでお互い社内で顔を合わせることは滅多にない。
「美雪ちゃん、そろそろか?」
エレベーターに乗ってるのが二人だけだったので柏が聞いた。
「そうなんだ。今、お義母さんがウチに泊まり込みでミユキを見てくれているんだけど、なんか俺、緊張しちゃってさ」
「必要な時はすぐに連絡してくれ」
「ああ、ありがとう。よろしく頼むよ」
柊がエレベーターを降りると、扉が閉まって柏は上のフロアへ運ばれて行った。
仕事を終えた柊は車を車庫に入れ玄関扉の鍵を開けて中に入る。靴を脱いで片づけるとエレベーターで二階に上がった。彼の家は、一階の殆どの部分を子ども食堂に提供し、二階が住まいになっている。
この家の所有者は義理の父の石井守之で、目に入れても痛くない愛娘で柊の妻の美雪の妊娠がわかり、入籍後に二人が住むことにしたこの家をリフォームする際、ホームエレベーターを設置したのだった。
二階に着くと
「ただいま。ミユキ調子はどうだ?」
急ぎ足で美雪のもとへ行った。
美雪はソファーからゆっくりと立ち上がると
「ヒイお帰りなさい」
柊とハグをした。そして彼の大きな手を取ると自分のお腹にあてがった。大きく膨らんだお腹を柊が優しく擦って声をかける。
「ただいま。千春」
お腹の子どもの名前は『千春』と二人で決めた。性別は生まれるまでわからないままにした。出産予定日は立春を過ぎた頃なので、いくつもの春を幸せに迎えて欲しいと願って命名した。生まれてくる子が男の子でも女の子でもしっくりくる名前だ。
「柊君、お帰りなさい。お腹空いたでしょう。食事の用意できてるわよ」
キッチンから、美雪の母の美子が声をかけた。
「お義母さん、ただいま。先に風呂に入ってきます」
柊は寝室で部屋着に着替えると浴室に入っていった。
入浴後、美子の手料理を食べながら、ソファーに座っている美雪をチラチラ見ていた。なんとなく、いつもより辛そうに見えたからだ。
「お義母さん、ミユキ大丈夫かな。なんか、いつもよりしんどそう」
お茶を淹れてくれている美子に聞いてみた。
「そうね、初産だから予定日より少し早まるかも知れないわね。柊君、夜中に産院に行くようになるかも知れないから、食べ終わったら早めに休んで。何かあの子の体に変化が見られたら、すぐにあなたを起こすから」
「はい。お願いします」
「柊君、起きて」
誰かの声に目を覚ます。
美子の声だった。柊は慌てて起きあがり、美雪のもとへ急いだ。彼女はソファーでお腹を抱えるようにうずくまっていた。
「お義母さん!」
柊が美子を呼ぶ。
「今、先生に電話を入れたので、急いで行きましょう。柊君、車お願い」
美子は慌てることなく落ち着いて柊に言った。
「ミユキ、動けるか。ゆっくり立ち上がるぞ」
柊は上着を羽織らせた美雪を抱えるようにゆっくり歩き、入院に必要な物が収まったバッグを美子が持ち、エレベーターを下りて家を出ると、三人は車に乗り込んだ。
『ハイツ一ツ谷』では、柏が操の部屋に顔を出していた。
「母さん、美雪ちゃん生まれそうだって。今、柊から連絡があった。俺、これから産院に行くけど母さんはどうする?」
「もちろん行くわ。姫を月美さんにお願いしていいかしら」
「大丈夫だよ」
珠子を月美に預けると、操と柏は美雪がいる産院に向かった。
「今日、久しぶりにヒイラギと社内で会ったんだよ。アイツさ、ソワソワして落ち着きなくて」
ハンドルを握る柏がクスッと笑った。
「初めての出産だからね。期待と不安と喜びがごちゃ混ぜになってるんじゃない、ヒイラギの頭の中」
操はそう言って
「で、アンタのところはどうなの?」
と、柏を見た。
「俺たちには、タカシがいる。アイツさ俺を血の繋がった父親のように接してくれてる。甘えてくれるし、マジな喧嘩もする。本音でぶつかってくるんだよ。だから、俺の子どもはタカシだけでいいんだ。月美とも話し合ったんだ。俺たちは二人の時間を大事にしようって」
柏が正面を向いたまま目尻を下げて言う。
「何ニヤけてるのよ。それにしてもタカシ君はしっかりしたいい子ね。彼のおかげで姫はとても救われているわ」
「そうなのか」
「ええ、タカシ君がウチの子になってくれて本当に良かった」
産院に着いて夜間受付の手続きを済ませると、操と柏は待合室へ向かう。そこに柊が落ち着かない様子で立っていた。
「母さん、カシワ、悪いな。俺さどうしていいのか分からなくて、そっちに連絡しちゃった。来てくれてありがとう」
「アンタ、ミユキちゃんについてなくていいの?」
「うん、今、控え室で待っているんだ。お義母さんとお義父さんが付き添ってくれている」
「アンタも付いていなさい。私たちはここで待ってるから」
操が言うと、柊は頷いて美雪のもとへ向かった。
「アイツもお父さんか」
柏は感慨深げに言った。
柊は去年の夏まで柏の住む102号室で一緒に住んでいた。柏の二歳年下の弟、柊は子どもの頃からお兄ちゃん子で、いつも柏の後をくっ付いていた。大人になってからも、柏にアドバイスをもらったりしていたのだった。美雪との交際や妊娠や相手の姓を名乗ることも、母の操より先に自分に報告してくれた。高身長の柏より更に背が高く筋肉質のがっしりした体つきの柊だが、優しすぎる性格に兄としては少し頼りなさを感じていた。これからは一児の親としてたくましくなってくれと願った。
陣痛の間隔が短くなり、美雪は分娩室に移った。それから三時間ほど経った頃、大きな産声が待合室まで届いた。
「生まれたわね」
操が言うと、柏は無言で大きく頷いた。
彼は柊から誰よりも早く子どもの名前を聞いていた。暦の上では春になるのだから、その頃生まれる俺の子は春を迎えた子どもなんだ、と柊は優しい笑顔で言っていた。
千春ちゃんかぁ、いい名前だなと柏は思った。