スカウト(2)
「おはようございます」
孝を見送った珠子が操の部屋に戻ろうとした時、後ろから声をかけられた。振り返りたくなかったが、仕方なく珠子は振り向いた。
何日か前に目の前に現れた、仕事ができそうなキリッとした雰囲気のスーツ姿の女の人が立っている。
「おはようございます。神波珠子さん」
二度目のおはようを言われたので
「おはようございます」
珠子も仕方なく挨拶をした。
「珠子さん、ちょっとお話しましょう。この間もお伝えしたけど、私は桐山圭と言います」
スーツの人が笑いかける。
珠子は微動だにせず相手をじっと見た。
「その目が素敵。唯一無二だわ。あなたは私だけを見ているのでは無いわね」
桐山が笑顔のまま話を続ける。
「あなたには私の姿以外に何が見えているのかしら」
珠子は悩んだ。操に助けを求めるか、彼女に心配をかけないために自分でこの場を切り抜けるべきか。
「あなたならモデルとして、子役として、もしかしたらコメンテーターとしても世間をあっと言わせられるわ。絶対私が言わせて見せる」
「私は世間に関心がありません。自分と自分の大事な人とのんびり過ごしたいです」
珠子が言うと、桐山が笑顔を崩さず話す。
「その言い方。5歳児の言葉とは思えないわね。人生何周目って聞かれたことなあい?あなたの大事な人って、今見送っていた彼のこと?先日、私がここを訪ねた時も仲が良さそうだった」
「監視されているみたいで怖いです。やめてください」
珠子が相手を睨んだ。
「怖がっている顔には見えないわ。その目が本当に素敵」
桐山が微笑む。しかし彼女の目は全く笑っていない。
この人は、本当にタレント事務所のスカウトなのだろうか。真の目的を知るために、この人の纏っているものを感じ取ろうと珠子は思った。が、その力を使うと自分の体力は消耗し、立っていられなくなるかも知れない。
「あの、桐山さんはスカウトをする気が無いように思えるんですけど。目的は何ですか?」
「私は、珠子さんをスカウトに来たんですよ。それ以外の目的はありません」
桐山は探るような目で珠子を見ている。
「その割には私を苛立たせるような事を話して前向きな気持ちにさせてくれないんですね」
「気分を害したのなら謝ります。珠子さんと話していると、大人同士の会話をしてるみたいだったから、あなたの技量を試しました」
桐山は急に顔つきが柔らかくなり、声のトーンも優しくなった。
「姫、今日のお見送りは随分時間がかかるのね」
玄関の扉が開いて、操が言いながら顔を出した。
そして珠子と向き合っている桐山と目が合った。
「あなた……」
操は扉の外に出て相手を睨みつけた。
「あなたと話すことは何も無いと申し上げた筈ですが。しかも、この小さな子どもに保護者の許可無く直で話すってどういう神経をしてるです?」
「申し訳ございません」
桐山が深々と頭を下げた。
その時、軽やかに階段を下りてくる音がした。珠子がその方向を見上げ、笑顔を見せた。
「おはようございます、咲良さん」
205号室の住人、制服姿の金子咲良が珠子と操を見ながら、
「珠子ちゃん、おはよう。大家さんおはようございます」
挨拶をした。そして見たことのないスーツ姿の女性に軽く会釈をした。
「咲良ちゃん、大学決まったのね。おめでとう」
操は今まで吊り上げていた目尻をストンと下げて女子高生に笑顔を見せた。
「推薦だから何もしてないんです」
咲良が言うと、操はいやいやと首を振った。
「日頃の成績や勉強する姿勢の評価が認められたのよ。あと少しの高校生活を楽しんでね。いってらっしゃい」
「いってきます」
操と珠子に手を振られて、咲良も振り返し、桐山にもう一度会釈をして出かけていった。
操は振っていた手を下ろすと、大きなため息をついて、桐山に声をかけた。
「とりあえず、中にお入りください」
操と桐山は、ソファーに向かい合って座った。珠子が湯呑みの乗ったお盆を持って慎重に歩いてきた。
「どうぞ」
と、言って桐山の前にに茶托に乗った湯呑みを置いた。操と自分の前にも湯呑みを置く。
「珠子さんは、本当にしっかりされてる」
桐山が感心する。そして、操に顔を向けた。
「神波さん、どうか珠子さんを私どもに預けていただけないでしょうか」
そう言うと頭を下げた。
「桐山さん、この子の母親はこの真上の部屋に住んでいます。なぜ、すぐ近くにいるのに離れて暮らしていると思います?」
操が口を開いた。
「わかりません」
「この子の目を恐れているんです」
「私は珠子さんの眼差しは素晴らしいと思いますが」
「桐山さん、今はそう思ってくれても長い時間この子といたら、あなたも普通でいられなくなります」
怪訝そうな顔をした桐山を見て、操が苦笑いをした。
「信じてませんね」
「ええ、信じられません」
「試してみます?」
「えっ」
「姫、お願い」
操に言われると珠子は頷き、桐山のことを見つめながら横に座った。
「桐山さんは正面、私の方を見てください」
そのまま、静かに時間が過ぎていった。
「寒い」
桐山が呟いた。珠子の座っている側の肩から腕、腰から膝、鳥肌が立っている気がする。ほんの少し顔を珠子の方に向けようとすると、
「そちらを向かない方が良いですよ」
操が桐山の動きを止めた。それでも、じっとしていられず彼女は顔を横に向けた。珠子と目が合う。刹那、桐山の顔が恐怖に歪む。
「姫、もう良いわよ」
操に言われて珠子は脱力した。
「桐山さん大丈夫ですか」
珠子が心配そうに声をかけた。
「今のは……何が起きたんですか」
桐山が小さな声で聞く。
「上手く説明できないんですけど、ざっくりと言うのなら、体質と言うか特技と言うか」
「はい?」
「形を捉えるのが凄く上手い人や、暗記が得意な人と同じです」
「はあ…」
「もちろん、この子とずっと目を合わせても何でもない人もいます」
「そうですか」
「桐山さん」
横から珠子が声をかける。
「はい」
返事をした桐山に話を続けた。
「嫌な思いをさせてしまってすみません。桐山さんが優しい人だというのはわかっています。だから私の事を理解して欲しかったんです」
珠子の話の続きを操がする。
「過去に、この子はこの視線や体質のようなもののせいで、命を狙われた事があったんです」
「そんな事が」
「ええ、ですから、人前に晒されるような事はさせたくないんです。どうかそっとしておいてください。お願いします」
操は立ち上がり深く頭を下げた。珠子も操の隣に移りお辞儀をした。
「頭を上げてください。わかりました。諦めます。でも珠子さん、あなたは本当に魅力的だから、もう少し大きくなって私の事務所に少しでも興味が湧いたら是非連絡くださいね」
桐山は寂しそうに微笑んだ。
珠子は言葉を発せず会釈をした。
桐山が帰って、操と珠子はふーっと深いため息をついた。
「ミサオ、あの人は本当に諦めてくれたのかな?」
「多分、大丈夫よ」
「別な人が来たりしないかな?」
「大丈夫だと思うわ。あの人社長さんだから」
「そうなの?」
「源が調べてくれた」
「パパが」
「そう」
「ミサオ、お腹が空いたね」
「確かに。まだ朝ごはんを食べてないものね。ご飯は炊けてるんだけど」
「卵かけご飯が食べたい!」
珠子は、グーッとお腹を鳴らしながらご飯をかき込むジェスチャーをした。