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孝の書き初め

神波のみんなが集まって食事をした翌日、柏の部屋の奥のスペースではレジャーシートの上に新聞紙を敷いて、フェルトみたいな下敷きに書き初め用の長半紙を文鎮で固定し、それを前に孝が正座をしている。その左側に珠子が神妙な顔をして、やはり正座をしていた。

二人は一言も口を開かず、半紙の左隣りに置かれた手本を見ている。




昨日、みんなで月美の手料理を味わっていた時、二人はソファーに座って揺り籠の元太をあやしながら、から揚げやフルーツを頬張っていた。

その時、孝が聞いた。


「タマコ、明日は何か予定があるの?」


「なんにもないよ」


そう、彼女が言ったので


「じゃあ、明日もこっちにおいでよ」


孝が誘った。

おもいっきり、うん、と返事をした珠子に、


「書き初めをするんだ」


「書き初め?」


「冬休みの宿題なんだけど、おれ、習字が好きなんだ。結構上手く書けるんだぜ。だからタマコに…」


孝は得意なことを見てもらいたいのだ。


「うん。タカシの書く字が見たい。見せて」


と、言いながら実は習字や書き初めがどんなものなのか珠子は知らなかった。〈字〉とか〈書〉と言うんだから字を書くんだろうなと思ったが、わざわざ見せたいってどういう事なのだろう。後で操に聞いてみようかと考えたが、やっぱり明日のお楽しみにしようと珠子は思った。




長半紙を前にして正座している孝が右に置いた黒い不思議な形の四角い器に水を垂らし、そちらへ体の向きを変えると、右手でしっかりつまんだ黒い四角い塊──クレヨン二本分ぐらいの大きさだなぁと珠子は思った──を、前後にスライドするみたいにその器に(こす)りつけた。

慣れない正座に足が痺れてきた珠子はゆっくり立ち上がり、孝の右側の方へそっと移動した。真剣な表情をして黒い塊で黒い器を擦っている孝に、


「タカシ、ちょっと聞いてもいい?」


勇気を出して質問した。


「ん?どうした」


「何をやってるの?」


「そっか、タマコは初めて見るんだもんな」


「うん」


孝は右手でつまむように持った黒い塊を珠子に見せながら


「これは墨。墨を()っているこの四角いのは硯っていうんだ。初めて見た?」


そう聞くと、珠子は頷いた。


「初めて見た。ミサオは筆ペンで書いてるよ。硯に垂らした水が真っ黒くなるまで墨を磨るの?凄く時間がかかりそう」


「でも、こうやって墨を磨ってるとなんか気持ちが落ち着くんだ。学校で習字を習う時は墨汁を使うけどね」


孝はその後も無言で墨を磨り続けた。その姿をずっと見ていた珠子は、大人だなぁと感心した。

かなり時間をかけて墨を磨り終わると、半紙の左隣りに置いた手本をじっと見て孝は、ふうーっと深く息を吐いた。

筆に硯の墨をたっぷりつけると、前屈みになって一気に書き上げた。『初春の空』という四文字が長半紙に力強く並んでいた。そして、細い筆に墨をつけ半紙の左側の余白に『五年三組 神波孝』と書くと、ひと息ついた。


「タカシ、凄い」


珠子は無意識のうちに立ち上がって孝の筆運びを見ていた。書道の知識が全く無い珠子が見ても大胆で上手な字なのがわかった。


「タカシは空間認識があるんだろうな」


突然二人の後ろから声がした。

振り向くと柏が腕を組んで、うんうんと頷きながら立っていた。


「半紙に対して文字の配置が絶妙だもんな。さすが俺の息子だ」


「お父さん、やめてくれ」


べた褒めの柏を孝が恥ずかしそうに制した。


「いや、マジで。俺が子どもの頃なんて、イイ感じに書けてると思ったのに最後の一文字がスペース足りなくて、平体がかかった潰れた字になるんだよな」


「タカシ、もう書かないの?」


珠子が聞くと


「あと二枚書いて、三枚の中から選んで一番良いのを学校に持っていく」


孝は新しい長半紙を広げながら言った。

そして、一気に二枚の書を書き上げた。

三枚を並べて、孝が聞いた。


「タマコとお父さんはどれが良いと思う?」


そう聞かれて少しの間考えていたが、


「タマコ、指を指そう。せーの」


二人とも最初に書いたのを指した。


「やっぱり、これが良いよ」


そう言った珠子に、孝はその長半紙を手に取ると


「これ、タマコにあげる」


彼女に持たせた。


「ダメだよ。これはもらえないよ」


「いいんだ。一番上手く書けたのはおまえにあげるって最初から決めてたんだ」


そう言う孝の肩に両手をかけて、柏が珠子を見た。


「もらってやってくれ。こいつの気持ちだから」


「ありがとう。すっごく嬉しい」


珠子は、両手で書き初めを持って目の前にかざすと、素敵、と呟いた。

その様子を見た孝は擽ったそうな顔をした。


「タマコのハートを掴んだな」


柏が孝の耳元で囁くと、彼は照れて真っ赤な顔をしながら父親を軽く睨んだ。

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