絹さんについての調査
「タカシ、いってらっしゃい」
「いってきます」
朝、いつものように珠子は孝を見送った。
階段を力強く踏み締めて下りる音がして、珠子がそちらを見た。
スーツの上にコートを羽織った背の高い男の人、ちょっと強面の魚住だった。
208号室の住人だ。
「魚住さん、おはようございます」
珠子がちょこんとお辞儀をする。
「あ、大家さんの、ええと…」
「珠子です」
「珠子ちゃんか。おはよう。今見送ってたのは彼氏か?」
「はい、彼氏です」
「ははは、言うねぇ」
「魚住さんは、お仕事ですか」
「そう。今日はちょっとゆっくりなんだ」
「いつもは、もっと早いんですね。いってらっしゃい」
魚住は小さな女の子に見送られて、はにかみながら手を振った。
「おう、いってきます」
彼の後ろ姿を見て、凄く背の高いおじさんだなと珠子は思った。
そう言えばリョウ君も背の高いお兄さんだった。珠子は、魚住の前に208号室に住んでいた当時美大生だった高田涼のことを思い出していた。優しくて正義感が強くて、当然だが絵が上手くて珠子が大好きなお兄さんだった。
今はオランダで絵の勉強をしている。
「元気かな、リョウ君」
「魚住さんに会ったの?」
「うん。あのおじさん背がすっごく高いね」
少し遅い朝ごはんを食べながら、珠子は魚住にいってらっしゃいを言った話を操にしていた。
「ウチの男たちもみんな大きいけど、彼はもう少し高いよね」
「うん。パパもカシワ君もヒイラギ君もみんな背が高いけど、魚住さんはもっと大きくて、ちょっと怖い顔だから迫力があるね」
「うふっ、不機嫌そうな顔をしてるけど彼は親切なのよ。絹さんがね、夏が過ぎた頃から体調を崩してる感じだったじゃない」
絹さんとは104号室の最近御年89歳になった沢野絹のことだ。今、彼女のところには娘が泊まり込んで介護に関する手続きをしている。
「私たちも何回か様子を見に行ったよね、絹さんの部屋に」
「そうね。その頃にね、魚住さんが絹さんの手を引いて彼女の部屋の前まで連れて行ったのを見かけたの。その時スーパーの袋を絹さんに渡してたから、どこかで出会って絹さんの荷物をここまで持ってあげてたんでしょうね」
操は、背の高い魚住が腰をおもいきり屈めて絹の手を引いていた姿を思い出していた。
「ねえ、絹さんは、やっぱりどこかに行っちゃうの?」
「どうかしらね。もう面談終わったのかしら」
午後になって、おやつにホットケーキの準備をしているとインターホンが鳴った。
「はい」
操が返事をする。
「こんにちは。104号室の沢野の娘です。ケアマネさんをお連れしたんですが」
「はじめまして。『オフィスふくし』から参りましたケアマネジャーの水田と申します」
優しそうな声の女性だった。
「お待ちください」
操が玄関の扉を開けると、絹の娘の池田洋子と三十代ぐらいの眼鏡をかけた女の人が立っていた。
「どうぞ、おあがりになって」
奥のソファーに案内する。
「姫は少しの間、寝室にいてくれる」
珠子に操が耳打ちする。わざわざ小さな声で話した操を見つめた珠子は、コクンと頷き寝室に入っていった。
ソファーに洋子とケアマネジャーが向かい合って座っている。それぞれの前にお茶を置いた操は、洋子の隣に腰を下ろした。
「改めまして、私『オフィスふくし』の水田あゆみと申します」
名刺を操に渡した。
「今日、こちらにお伺いしましたのは104号室にお住まいの沢野絹さんのことをお聞きしたくて参りました。介護認定の調査のご協力をお願いします」
「はい。私の知る範囲でお答えします」
水田の質問に、操はできるだけ丁寧に答えた。最近の絹について一番近い他人として、本人はできていると思っているが端から見るとできてない事や、呼んでも返事がなくて慌てて様子を見に行った事が何度もあったという話をした。水田はその話を頷きながらノートに書き込む。
三十分ほどで聞き取り調査は終了し、介護度数が確定した時点で絹が入居を続けられるのか相談させてくださいと言って、洋子と水田は帰っていった。
二人の気配がなくなって、珠子が寝室から出てきた。
「お話終わったのね」
「ええ、終わった」
操は湯呑みを片づけながら言った。
「絹さん、いつまでここにいられるかしらね」
「いなくなっちゃうの?」
「まだわからないけど、お年寄りの一人暮らしって……」
操は考え込んだ。
人はどう頑張っても、いつかは自分の思うような生き方を続けるのが難しくなる。自分の面倒を自分自身でできなくなる。
操はそう遠くない将来を想像した。
「ミサオ、どうしたの」
珠子が心配そうに覗き込む。
「うん、姫とずっと一緒にいたいから元気なおばあちゃんでいなくちゃね」
珠子のふっくらとした頬を撫でて、操が笑顔を見せた。