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珠子の土いじり

『ハイツ一ツ谷』の建物の南側の庭は入居者がスペースを決めて自由に使える。

104号室の沢野絹(さわのきぬ)は自分の部屋から見えるところに花壇を作り、今はコスモスが満開だ。

一番奥まったところにには畳四枚分程の面積の畑がある。そこで家庭菜園をしているのは108号室の名取丈(なとりじょう)

78歳の元気な老人だ。トマトや胡瓜や茄子などの夏秋野菜が終わって、今は更地になっている。長靴を履いた名取はシャベルでそこを掘り返して発酵した肥料を少量混ぜていた。


「ナトリさんこんにちは。何やってるの」


珠子が畑と芝生の境に立っていた。アパートの庭の花壇や菜園スペース以外は芝生が広がっている。


「珠子ちゃんか。うん、次に植える野菜の為に土を良い状態にしているんだよ」


名取はちらっと珠子を見たが、すぐ目線を目の前の土に向けた。


珠子も畑のほぐされた土をじっと見つめた。その中で何かが(うごめ)いた。


「!」


思わず後ずさりする。その様子を見た名取は少しだけ口角を上げた。普段しかめっ面でいる彼が一瞬顔をほころばせたのだ。


「何か見えたか」


「なんか、にょろっとしてるのが見えました」


珠子が顔を強張らせて言った。


「ミミズだ」


名取は土の中からひょいと摘まんで珠子に見せた。


「立派なヤツだろう。この子たちは古い土を食べて栄養たっぷりの良い土を出すんだよ」


「食べて出すってうんちってこと?」


「そうだ」


珠子はますます後ずさる。


「姫、ミミズのおしりから出たものだけど、きれいで栄養たっぷりの土なのよ」


いつの間にか小さな黄色い長靴を手にした操が立っていた。


「これを履いてそばで見せてもらいなさい」


気が乗らなかったが珠子はとりあえず長靴に履き替えた。


「珠子ちゃん、こっちへおいで。この土触ってごらん」


名取に呼ばれて仕方なく畑に足を踏み入れた。ふわっと長靴が土に沈んだ。小さな手で土をすくってみた。


「柔らかい。わぁ土の匂い」


「だろう。栄養たっぷりの自慢の土さ。これで育った野菜は旨いんだ」


「ええ、瑞々しくて美味しかったわ。分けていただいたトマトも胡瓜も。姫も夢中でサラダ食べたでしょう」


操に言われて珠子は思い出した。


「うん、そう言えば夏に食べたサラダ、何回かすっごく美味しいのがあったね。トマトが苺みたいに甘かったよ」


確かにスーパーで買ったトマトは味が薄くて青臭かったのに、名取さんがくれたのは甘くて爽やかな匂いがしたのを珠子は思い出した。


「今度は何を育てる予定ですか」


操が土を触りながら聞いた。


「そうだな。やっぱり寒くなったら葉物だな」


「名取さんは土作りの名人ですね」


「元々農家の出なんでね。土を触っていると落ち着くんだな」


土の手触りが気に入ったのか、珠子はいつの間にか両手を土に沈めて言った。


「ここに蒔いてもらう種は幸せですね」





部屋に戻った珠子と操は、白菜をたっぷり使ったミルフィーユ鍋の昼食をとった。


「野菜を育てるのは大変なんだね。種蒔いて水をあげればできるんだと思ってた」


白菜とスライス肉を冷ましながら珠子がしみじみ言った。


「そうね。私たちは美味しい野菜を作る人や、このお肉、みんな感謝していただかないとね」


「うん」





食事を終えて二人はホームセンターにいた。珠子が野菜を育ててみたいと言うのでグリーンコーナーでハーブの栽培キットと小さな観葉植物をカゴに入れた。

操は右手にカゴ、左手で珠子の手を握りレジに向かった。平日の割には客が多く通路をすれ違う時は少し譲り合いをしながら通る感じだった。操たちも数人の客とすれ違った。

その時、珠子の繋いでない方の手を誰かが強く握り凄い力で引っ張った。一瞬の強く勢いのある行動は二人を引き離した。


「姫!」


操が叫びながら追う。周りの客や店員も追いかけた。珠子は引っ張られる強い力とスピードに殆ど引きずられる形になった。


──怖い!何が起きたの?


珠子は混乱した。とにかく引っ張っている手から逃げたいと思った。反対の手を伸ばして何かに掴まろうとした。掴めそうな陳列棚に小さな手をかけた。それが一瞬ブレーキの役目を果たした。相手の手汗で珠子の細い手首がするっと抜けて解放された。

連れ去り犯はそのまま猛ダッシュで店を出て行った。操は棚の傍で倒れた珠子を抱きしめた。




店からの通報で駆けつけた警察官は被害に遭ったのが、少し前に駅前の交差点での事件に巻き込まれた二人だったことに驚きを隠せなかった。

事情聴取を受けた後、珠子と操はパトカーでアパートまで送ってもらった。

アパートでは、連絡を受けて早退した柏と柊、珠子の母の鴻が待っていた。

警察官は大まかな事件の概要を説明し今までよりも更に巡回の回数を増やすことを伝え帰っていった。





「珠子、無事で良かった。けど、一体何なんだ」


柊は怒りをどこにぶつけたら良いのか分からない気持ちになった。


「ごめんなさい。私が油断してたわ。駅前であんな事があったのに」


さすがに操は沈んだ声で謝った。


101号室の狭いリビングに五人が集い珠子の今回の事を話していた。


「お義母さんに頼りっぱなしの私が悪いんです」


鴻も頭を下げる。


「誰も悪くないよ!悪いのは私の手を急に引っ張った人だよ」


珠子が大きな声を上げた。


「そうだな。タマコの言う通りだ」


柏が珠子の頭をなでた。


「被害者がびくびく暮らすなんておかしいよな」


「駅前の犯人は、やっぱり闇バイトだったんだろう。主犯がなぜタマコを狙うのか分からない。やっぱりこの子の能力が関係してるんだろうな。そいつがその事を知っているって前提だけどな」


「だからこそ、気を付けながらも堂々としていりゃあ良いんじゃない」


相変わらず柊は怒っている。


「お義母さん、私が言うのもおこがましいんですけど何か手伝える事があったら声をかけてください。私がこの子の為に何ができるかわからないけど…でも声をかけてください」


鴻は珠子をしっかり見つめながら操に言った。


「コウちゃんありがとう。どうか助けてください」


操は頭を下げた。


「タマコ、お前大丈夫か」


柊が珠子の両手を握った。


「うん、私は大丈夫。だって私にはこうやって心配してくれて守ってくれる家族がいるんだもん」


珠子は大きな声で言った。そして今日買ったキットを手にした。


「ミサオ、明日は一緒にこのハーブの種を蒔こうね」

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