03 少年との出会い
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人間領域にほど近い、領域境界の中を流れる川のほとりで、一人の少年が釣糸を垂らしている。
日の光を受け、艶やかに流れる黒髪に、ともすれば少女と見間違うほどの美しい容姿。
この大陸では滅多に見られない、はるか東方の民族衣装にも似た服を纏っており、彼は時々釣竿を揺らしながら魚がかかるのを待っていた。
座り込む彼の近くには水に浸した魚籠があり、その中にはすでに数匹の魚が入っている。
しかし、ここしばらくは釣れていないようで、少年は川面をながめながら小さな欠伸を噛み殺していた。
そんな少年の隣には、彼のペットなのだろうか、一匹の狐が横になって寝入っている。
「先生から言われたノルマまであと一匹だっていうのに、釣れないねぇ……」
「キュウン」
愚痴をこぼす少年の声に、狐が相づちを打つように小さく鳴いた。
それを受けて、少年は苦笑いしながら狐の背中を撫でてやる。
天気も良く、一見すればなんとものどかで平和な光景であった。
だが、本来ここは凶悪な魔獣が蠢く、領域境界である。
そんな場所で呑気に釣りをする彼が、見た目どおりな少年であるはずもないだろう。
「……さて、日が暮れる前に色々と用意しなきゃいけないし、今日はこの辺で止めておこうかな」
誰に言うでもなく、ひとり呟いた少年は竿を引き上げようとする。
と、その時!
隣で横になっていた狐が上体を起こすと、川上の方向を凝視しながら小さな鳴き声をあげた!
その様子から少年もそちらへ目を向けると、何か大きな物が上流から流れてくるのが視界に入る。
「あれって……人間!?」
流れてくる物をそう判断するや、少年は手にした釣竿を巧みに操り、器用に釣り針を引っかけると自分のいる川縁へと引き寄せた。
グッとくる重い感触、しかし一切の抵抗を感じない所をみると、どうやら意識を失っているらしい。
ただ、溺れている人間に擬態した水生魔獣の場合もあるので、万が一に備えて注意深く観察しながら引き寄せていたが、そういった罠の可能性もないようだ。
「よっ……と」
手を伸ばし、グッタリとした身体を引き上げると、その意外な人物に少年は「えっ……?」っと驚きの声を漏らした。
それというのも、流れてきたのが少年よりも少し歳上くらいに見える、眼鏡の美少女だったからだ。
(なんでこんな所に女の人が……しかも、こんな綺麗な人が……)
しっとりと濡れた黒髪や、ぺったりと張り付いた服から浮かび上がる身体のラインに、少年の胸がドキドキと高鳴る。
こんな危険地帯に似つかわしくない、気を失っている美しい少女の姿に、少年はしばし見惚れてしまっていた。
「キャウン!」
すると、固まっていた彼を叱るように、狐が吠える!
その鳴き声にビクリと震えた少年は、ようやく我にかえり、謎の少女を川辺から移動させた。
「ふぅ……と、とにかく、この人の様子を……」
改めて、少年は美少女の様子を観察する。
胸がかすかに上下している事から、呼吸はできているようだが、意識がない所をみると大量に水を飲んでしまっているのかもしれない。
そうであれば、まずはとにかく水を吐かせようと、少年は少女の腹部をグッと押してみた。
と、次の瞬間!
「ぶっほぉわぁぁっ!」
「っ!?」
まるで噴水のように大量の水を吹き出した美少女は、その容姿に似つかわしくない汚声と共に上体を起こし、目を覚ます!
そのまましばらく、凄まじい形相でゲホゲホと咳き込んでいたのだが、ようやくそれも収まって落ち着きを取り戻したようだった。
「ゲホッ、おえっ……こ、ここは……」
ダラダラと水と唾液にまみれた口元と、鼻水が垂れるのを拭うと、涙目のまま少女……レイアストが周囲を見回す。
すると、彼女の隣で心配そうにこちらを覗き込んでくる、見知らぬ少年と目が合った。
「っ!」
「っ!?」
その瞬間、背中を突き抜ける電撃のような物が走り、レイアストと少年を硬直させる!
(な、なに……この感覚……)
(なん……だ、これ……)
見つめあったまま、永遠にも感じるほどの数秒が流れ、ようやくハッとした表情で我に返った少年が、レイアストへ手を伸ばす。
「あ、あの……」
「あ、あえっ!?」
ビクリと震え、まだ身体に力が入らないためか、腰が抜けた状態のまま器用に素早く後退して距離を取るレイアスト!
そんな彼女に、少年は驚きながらも両手を軽く挙げて敵意は無い事を示した。
「ひとまず……落ちてください。貴女がそこの川を流れて来たから、助けるために引き上げたんですけど、大丈夫ですか?」
少年に言われ、レイアストはハッとして背後に流れる川をチラリと見て、こうなった経緯を思い出す。
(そうだ……私、ゴブリンの群れに襲われて、川に落ちたんだっけ)
意識を失う前の記憶が甦り、無事だった現状にホッとしたのも束の間、密命のために渡された親書の事も思い出されて、レイアストは慌てて身につけていたリュックの中をチェックした!
「ええっと……あった!」
リュックの底に、硬く封印されてた和平の親書が入った小箱を見つけ、レイアストは心の底から安堵のため息を吐いた。
どうやら保護のための魔法もかけられているようで、他の荷物は水浸しになっていたが、小箱には濡れたような染みのひとつも付いていない。
「よ、よかった~……」
「なにか、大事な物があったんですか?」
「ええ、王都に届ける手紙が……っ!?」
いつの間にか、そばに来ていた少年に声をかけられ、レイアストは文字通り飛び上がった!
「べ、別にたいした物じゃありませんっ!というか、貴方は誰なんですかっ!」
「あ、すいません。僕の名前は、モンドっていいます」
「モンド……くん?」
明らかにレイアストよりも年下な、モンドと名乗った少年は穏和な笑みを浮かべながら、「はい」と頷いた。
そんな彼の姿に、助けられた礼も述べず、アワアワしながら醜態を晒していた自分を顧みて、レイアストは羞恥で顔が赤く染まっていくのを自覚する。
「あ、あの……た、助けてもらったみたいなのにお礼も言わず、騒がしくてすいませんでした!」
「気にしないでください、困った時はお互い様ですから……と、言いたいところですが」
勢いで土下座ばりに平伏して頭を下げるレイアストに、モンドは不意に目を細めて詰問するような口調で問いかけてきた。
「貴女は……人間ですか?」
「え?そ、それは……はい……」
少年の迫力に押され、レイアストは思わず頷いてしまう。
(ま、まぁ半分は人間なんだから、間違ってはいないわよね!)
人間の母を持つのは事実なのだと、嘘をついた訳でないと自分自身に言い訳する彼女に、変な事を聞いてすいませんと謝りながら、モンドは少し困ったような表情で笑みを浮かべて、立ち上がるよう促してくれた。
「いやぁ、貴女が魔族でなくて良かったです」
「そ、そうなの?……ちなみに、もしも魔族だったらどうなっていたのかしら?」
「それはもう一度、川に放り込んでたかもしれないですね!」
アハハと冗談めかしてモンドは笑うが、その瞳には言葉とは裏腹に本気の光が宿っている。
(な、なにか魔族に恨みでもあるのかしら……)
見た目からは想像もつかない、少年の暗い内面を垣間見た気がしたレイアストは、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
「ところであの……良ければ、貴女の名前を教えてもらっていいですか?」
「あ……私、レイアスト……といいます。改めて、助けてもらってありがとうございました」
本来なら、フルネームで名乗り礼を述べるべきなのだろうが、仮にも魔王の一族。
人間相手に迂闊に名乗れば、トラブルしか起こらない事を見越して、レイアストはファミリーネームを伏せたまま頭を下げる。
そんなレイアストの様子に気づきながらも、彼女にも事情があるのだろうと察してくれたのか、モンドはそれ以上を追及してこなかった。
(なんて気遣いのできる子なんだろう……)
先程は怖い物を感じたものの、普通に接する分には、その紳士的な対応に感動すら覚える。
レイアストは、モンドに対する好感度が上がった事を自覚し、内心でかってにポイントアップした事を告げていた。
(それにしても……)
恩人であるモンドの姿を、レイアストはこっそりと観察する。
年齢的な物もあるのだろうが、一瞬だけみれば美しい少女と見間違うほどの美少年であり、さらに見慣れない服装に身を包んでいる。
その絶妙なバランスの美しさは、眺めているだけでなぜか胸がドキドキと高鳴るのだが、なによりレイアストの気を引いたのは、人間には珍しいという、彼女と同じような黒い髪だった。
人間は、宿す魔力の影響で髪の色に特徴が出やすい。
それゆえ、黒い髪はどこかで魔族の血が入った証しなどとも言われていた。
実際、黒髪の人間は宿す魔力の量が大きい事が多く、人の多い都会などでは重宝されるらしいのだが、人間領域の一部の地方では古い悪習からか、差別的な扱いを受ける事も珍しくないそうだ。
もしかしたら、モンドが魔族に好ましからぬ感情を持っていたり、自分に親切にしてくれるのは、同じような黒髪の所以だろうか……。
そんな事を考えていると、急にゾクッとする悪寒がレイアストを貫いた!
「いぃっくしゅっ!」
自分でも驚くほど、どこかおっさんくさい大きなくしゃみが響く!
そして、彼女の唾液と鼻水をまともに浴びるハメになったモンドに、またも土下座する勢いで頭を下げた!
その体勢のまま、ビリビリと痺れるような余韻を感じつつ、そういえば川で溺れていてずぶ濡れだったのだという事をレイアストは思い出す。
「はうぅ……」
しかし、自覚してしまうと一気に寒気が襲ってきて、身体が震えてきた。
だが、、リュックに入れていた予備の服も濡れているため、着替える事もままならない。
(ま、まずいわ……任務の途中なのに、このままじゃ絶対に風邪をひく!)
そんな体調不良と絶望的な気持ちに晒されたレイアストに、またもモンドが救いの手を差しのべてくれた。
「これで、身体を拭いてください。あと、僕の服で良ければ、着替えも」
「えっ!?な、なんで……」
「目の前で困っている人がいるのに、放ってはおけませんよ」
「だ、だけど私……何もお礼が……」
「いいですよ、そんな事。僕も、できる事をしてるだけですし、それに……」
貴女に何かしてあげるのが、なんだか嬉しい……そう漏らした、少年のごく小さな呟きは、レイアストの耳に届く前に風に拐われてしまった。
だが、にっこりと微笑みながらタオルと自身の予備の服を渡してくる少年に、レイアストの目から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちる。
「あ、あれ……」
自分でも意図しなかった反応に、レイアストは戸惑うような声を漏らす。
思えば、彼女は今までの人生の中で母以外から、このような優しさを向けられた事はなかった。
それだけに、少年の親切さが心の琴線に触れたとしても、不思議はないだろう。
「だ、大丈夫ですか!?」
突然の涙に、モンドが戸惑いをみせる。
そんな彼に、レイアストは首を振りながら涙を拭った。
「ごめんなさい、大丈夫……あんまり、優しくされるのに慣れてないから……」
「……僕は、あちらで夜営の準備をしてきますから、着替えが終わったら声をかけてくださいね」
グスッと鼻を鳴らすレイアストに、またもあえて何も聞かず微笑んだ後、モンドは背を向けて少し離れた場所に歩いていく。
「モンドくん……すごいな」
少年ながらにデキる気遣いと、手際よく夜営の準備をしている姿に、レイアストは感嘆の呟きを漏らす。
そうすると胸に暖かい気持ちが満ちてきて、少しうっとりとした瞳で彼を見つめていた。
すると、不意に彼女の足元にすり寄ってくる、一匹の獣があった。
「キュウン」
「え?き、狐?」
その狐は、観察するようにスンスンと彼女の匂いを嗅ぎ、再び足に身体を擦り付ける。
ずいぶんと人に慣れた様子の狐に、レイアストが驚いていると、モンドも少し戸惑った様子ながらもその子は僕の相棒なんですと声をかけてきた。
「そうなんだ……ねぇ、この子の名前は?」
「クズノハっていいます。仲良くしてあげてください」
「そっか……クズノハちゃん、よろしくね」
「キャウン!」
まるで、こちらこそよろしくと言わんばかりに一吠えしたクズノハに、レイアストも破顔しながらその頭を撫でた。
◆
モンドが夜営の準備を終えた頃にはだいぶ日も傾き、間も無く夜の帳が落ちてくる時間帯となっていた。
簡易的に作られた石組みの竈には、火にかけられた小鍋が乗り、その中でクツクツと何かのスープが小躍りするように煮られている。
「この辺りには、結界を張っておいたので、安心して過ごしてください」
濡れた服を焚き火の近くに配置し、モンドの替えの服を借りて着替えを終えたレイアストに、小鍋の中身を軽くかき混ぜながら、彼はなんでもない事のように言う。
しかし、この魔獣が跋扈する境界領域において、それがどれだけの難易度を誇るのか、レイアストには検討もつかない。
おまけに、完成した夕食のスープは、今まで食べた事もないほどに美味しかった!
城にいた頃は、明らかに家族よりもランクの劣る食事しかした事がなかったが、それなりの料理は出てきていたと思う。
だというのに、モンドが簡単そうに作ってくれた料理は、それらを凌駕していた!
「ううう……美味しい……」
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいです」
ニコニコと笑みを浮かべるモンドへの、何度目かになるトキメキを内に秘めつつ、レイアストは空になった容器を差し出して、おかわりを所望するのだった。
◆
──食事を終え、後片付けの手伝いをしながら、レイアストは考える。
(よく考えたら、このままではいけないわ……。魔王の娘として……なにより、年長者としての面目が立たないもの!)
自分の隣でテキパキと後片付けまで済ませるモンドを眺め、今頃になってレイアストはジリジリと自責の念と歳上のプライドが燻るのを感じていた。
しかし、着替えすら彼の世話になっている自分が、モンドのためにいったい何ができるだろうか……。
そんな事を考えていた時、片付けを終えてレイアストの対面に座ったモンドが、不意に小さなくしゃみを漏らした。
「あはは……やっぱり、日が落ちてくると冷えてきますね」
ただでさえ朝夕は肌寒くなる時期に加え、川辺ともなればさらに気温も下がる。
その上、唯一の防寒具である毛布までレ イアストに貸しているため、モンドは別に暖を取るべく、火勢を強めようと焚き火に小枝を追加していた。
(……これだわっ!)
鼻をすすりながら苦笑するモンドの姿に、レイアストは突然の閃きを得た!
そして、その作戦を決行するにあたり、心を落ち着けるために深く呼吸をする。
「…………あの、モンドくん?」
「はい?」
「よかったら……こっちにこない?」
意を決してそう言うと、レイアストは誘うように羽織っていた毛布を広げた。
一瞬、キョトンしていたモンドではあったが、その言葉と行動の意味を理解した彼の顔がみるみる朱に染まっていく!
「え、あ……ええっ!?」
「べ、べ、別に変な意味じゃないよ!寒くなってきたし、二人でくっついていた方が暖かいでしょ?」
「そ、それは……そうでしょうけど……」
真っ赤になるウブなモンドの姿に、大人びた少年が歳相応の顔を見せてくれた気がして、レイアストはなぜか少しだけ嬉しさを覚えた。
そして、今が攻めるチャンスなのだと内なる声が叫び、彼女はそれに従って追撃をかける!
「助けてもらったあげく、色々とお世話になった恩人に、風邪とかひかれたら大変だから……ね?」
レイアストは立ち上がると、対面で固まっているモンドの方へと移動して、彼を背中から包み込む!
柔らかい女体と、ほんのりと漂うレイアストの香りに、モンドは成す術もなく捕獲されてしまった。
「ほら、この方が暖かいでしょ?」
「そ、そ、そうですね……」
密着しているためか、互いの心臓の鼓動が、やけにハッキリと伝わってくる。
だけど、そのリズムと周りの静寂がなぜか心地いい。
本来なら相手の素性だとか、聞かなければならない事がいくらでもあるのだろうが、この空気が壊れる事を恐れた二人は、口を開く事を憚られていた。
(今日、初めて出会って、まだあんまり時間も経ってないのに……)
(なんだか、妙に落ち着く……)
それがなぜかは、分からない。
でも、やがてそんな事すらどうでもよくなり、レイアストとモンドは、それぞれの温もりに甘えるように穏やかな時を満喫する。
しばらくそうしている内に緊張もほぐれ、川の流れる音と焚き火の音をBGMに、二人は微睡むようなゆったりとした時間を共有するのだった。