02 初めての旅路
◆◆◆
「よぉし!これで、人間領域へ向かう準備は万端ね!」
自室の姿見の前に立ち、自分の格好をチェックしながら、レイアストは自信満々に呟いた。
父からの密命を受け、人間領域へ向かうにあたり、自身が魔族である事は隠さねばならない。
そのために、完璧な変装を成したとレイアストは自画自賛している。
しかし、魔族に多い黒髪は染める手間を惜しんでそのままにしてあり、同じように魔族特有な瞳に宿る光沢を隠すのに、眼鏡をかけただけという雑な変装だ。
さらに、服装は動き安い訓練着のまま、護身用として魔力の籠った短剣をベルトに挿し、雨露をしのぐための大柄なマントを羽織って、様々な道具を入れたリュックが一つだけという、とりあえずこんなもんでいいだろう感が溢れていた。
確かに、誰がどう見ても「魔族の姫」には見えないので、変装は成功していると言えば成功しているのかもしれないが。
「旅は初めてだし、下手に大量の荷物を持ち歩くよりはいいはずよね!魔族領域の端までは送ってもらえるし、人間領域との境にある難所も魔獣避けのアイテムがあるから大丈夫でしょう!」
一人で呟きながらリュックの中身をもう一度点検しているレイアストは、すでにこの密命の八割方成功している気分になっている。
それが大いなる誤解であることは、後に身に染みて理解するのだが、今の彼女は全てが終わった後、十数年ぶりとなる魔道具越しでない母との再会に、頭がいっぱいになっていた。
(この役目をしっかりこなせば、お父様の役に立った事にもなるし、お母さんも褒めてくれるよね……)
幼少の頃の、頭を撫でられた温もりが胸の中に去来する。
またあの暖かい感触を得られるのだと思うと、今の待機時間ですらもどかしかった。
そうして、自室の中で「フン!フン!」と鼻息も荒く無駄にウロウロしていると、扉をノックする音が響く。
その音に、いつものどこかおどおどした態度で返事をするのではなく、レイアストは素早く扉を開け放った!
あまりの反応の良さに、ノックした執事の方がビクリとしていたが、テンションが上がっているレイアストは関係なしにグイグイと迫っていく!
「準備ができたんですね?そうですね!」
「は、はい!裏門の前に、領域境界まで貴女を運ぶ馬車が用意……」
「わかりました!」
執事が全てを言い終える前に、レイアストは部屋を飛び出して廊下を駆けていった!
その背中を見送りながら、執事は唖然とした表情を浮かべる。
「……あの落ちこぼれが、ここまでやる気みを見せるなんて、初めてだな」
彼自身、上からの命令で用意をしただけなので、レイアストに課せられた任務については詳しい事は知らされていない。
だが、なにやらやる気に満ち溢れた落ちこぼれの末子に、一抹の不安を覚える。
「空回りしすぎて、任務に支障をきたさねばいいが……」
誠心誠意尽くすには値しない、弱くて無能な娘ではあるが、これから魔族領と人間領の境界となる危険地帯へ赴くとなれば、少しくらいは気にかかるというものだ。
元より、彼女が与えられた任務はこの国の利益に関係する事なのだから、成功を祈る事自体は妥当ではある。
だから、ついでにレイアストの無事を祈ってやってもいいだろう。
「まぁ……任務を成功させたのなら、少しは見直してやるか」
独り言のように呟き、執事は次の仕事をこなすべく、頭の中からレイアストの事を追い出しながら歩きだしていた。
◆
「ここが領域境界……通称『ガァマンの森』か……」
城を出てから、三日後。
ようやく人間領域と魔族領域の間を隔てる、ガァマンの森と呼ばれる広大な森林地帯の入り口に立ったレイアストは、圧倒的な大自然が醸しだす迫力に圧されて、それ以上の言葉を紡げずにいた。
領域境界は、大概がこのような深い森林地帯や、険しい山脈によって形成されている。
攻めるに難く、守るに易い緩衝地帯があるからこそ、二つの種族は独自の発展を遂げてきたのだ。
だが、この天然の要砦も、まったく行き来ができないという事はない。
魔族にしろ人間にしろ、この領域境界に自分達しか知らぬ秘密の通り道を持っており、それを通じて交流や戦闘を行ってきたのだ。
そして、現在レイアストが目指すのは、そんな魔族側が使用する秘密通路の一つだった。
(だ、大丈夫……私には、魔獣避けのアイテムがあるんだから……)
秘密通路自体は比較的に安全とはいえ、まったく魔獣や敵が出ない訳ではないし、そこへたどり着くにはそれなりに危険を伴う。
彼女自身、落ちこぼれの烙印を押されてはいるが、それなりの修業を積んではいるから、早々に遅れは取らないつもりではいる。
が、領域境界には今のレイアストよりも強い魔族の戦士が十人いても、蹂躙されるであろう強力な魔獣がうじゃうじゃいるというのだ。
ハッキリ言って、そんな魔獣に遭遇してしまえば勝ち目など微塵もないし、奴らのささやかな食事となって、レイアストの人生は終わるだろう。
そんな悲しい出会いを想像すると、膝が震えてお腹が痛くなってくる。
「が、がんばれ、私っ!」
それでも震える声で己を叱咤し、ビビる心にムチ打ちながら、レイアストは秘密通路までの地図を頼りに、森林地帯に足を踏み込んだ。
◆
「ハァ……ハァ……」
ガァマンの森は、ものの数百メートルも過ぎない内から、鬱蒼と繁る森の木々が陽光を遮り、昼間だというのに薄暗い。
さらに視界だけでなく、むせ返るような植物と土の匂いが嗅覚を鈍らせ、巨木の根や苔むした歩きづらい足場が、無駄に体力を削り集中力を乱そうとしてきた。
おまけに、周囲で物音が起こる度に息を殺し、様子を伺わなければならないのだ。
魔族軍が人間領域に向かう際に重用している、索敵に優れたレンジャー部隊のような者達か、この領域境界の森林地帯に住むエルフ族でもいてくれればもっと楽に進めるのだろう。
だが、密命故に単独で動かざるをえないレイアストは、そんな贅沢を口にする事もできず、恐る恐る進むより他ない。
しかし、そんな現状にもっとも歯噛みしているのは、レイアスト本人だった。
(うぐぐ……こんな所で、もたもたしてる場合じゃないのにっ!)
慎重に行かねばという思考と、早く任務を果たさないと……という気持ちが、頭の中でがっぷり四つでせめぎあっている。
人間だけでなく、他の魔王との両面で争いを続けている、ハウグロード国の現在の情勢をレイアストはよく知らない。
無論、彼女のような役に立たない奴に、そんな大事な情報を教えてくれるような親切な者がいないからである。
だが、それだけにレイアストがこんな仕事を任されるという事態そのものが、戦況が決して良いものではないとう証明だろう。
それだけに、もしも彼女が人間の国へ停戦の意思を伝えるのが遅れれば、何もかもがご破算になる可能性だってあるのだ。
一刻も早くこの任務を果たさなければという思いが、彼女に焦りをもたらしていた。
もちろん、早く母に会いたいという本音も絡んでいるのだが。
(……地図によれば、秘密通路まではもうすぐそこか)
目と鼻の先……とまでは言わないが、頑張ればわずかな時間で駆け抜けられない事もない距離。
下手にジリジリ進むよりも、一気に走り抜けた方が安全なのではないかという考えが、レイアストの脳裏に浮かんだ。
(そう……よね!魔族の諺にも、『行けば分かるさ、迷わず行けよ!』とあるし!)
覚悟を決め、レイアストは立ち上がる!
だが、次の瞬間!
彼女に程近い茂みが、ガサリと音を立てて揺れた!
「っ!?」
驚きのあまり、口から心臓が飛び出しそうになったレイアストだったが、鳴ったのがあまり大きな茂みではなかった事から巨大魔獣でないと判断し、護身用の短剣を抜き構えながら油断なくそちらを睨み付ける!
すると再び茂みが揺れ、そこから姿を現したのは……。
「ゴブリン!」
レイアストの前に姿を見せたのは、1メートル強の身長に腰蓑を着けただけといった格好の醜い小鬼。
人間にも魔族にも属さない、邪人と呼ばれる種族の中でも下位に位置しながら、その繁殖力の強さから数だけは多い、ゴブリンと呼ばれる存在だった。
「ぎぃ……ぎぎぃ!」
鳴き声とも独自の言語とも言い難い声を発しながら、ゴブリンはレイアストと睨み会う!
(邪人は、人間や魔族の勢力内だと、地方くらいにしかいないというけど……領域境界にも出るね……)
どうやら、魔獣避けのアイテムも、邪人相手には効果がないようだ。
しかし、油断はならないが、ゴブリン程度なら彼女であっても余裕で勝てる!
会敵はしたものの、少しばかりホッとしたレイアストは、冷静さを取り戻していた。
だが、一瞬でケリをつけてやろうと、レイアストが動こうとしたその時!
さらに、周囲からガサガサといった無数の音が鳴った!
「え……?」
それに合わせて、ゾロゾロと姿を見せるのは、数十体にも昇るゴブリンどもの群れ!
「ええぇぇぇぇぇっ!?!?」
すっかり囲まれたレイアストは、泣きそうな顔ですっとんきょうな声をあげた!
(な、な、な、な、なんなの、この数はっ!)
確かに、ゴブリンは群れる生態を持っているが、それは精々十匹程度の事で、ここまで大規模に群れを構築するなど、聞いたこともなかった。
しかし、何よりレイアストを怯えさせたのは、ゴブリンどもが彼女に向ける視線である!
奴らの目は一様にギラギラと欲望に燃え上がり、さらには腰蓑を持ち上げんばかりの勢いで膨らんでいるモノが股間にあるではないか!
(ヒ、ヒエェェェェッ!)
声には出さず、内心で悲鳴を上げるレイアスト!
(そ、そういえば、邪人って基本はオスばかりで、他種族の女性を襲って繁殖するんだっけ……)
昔、本で読んだだけの知識ではあるが、そのおぞましい話に身震いしたものである。
さらに、彼女自身は気づいていないが、レイアストの肢体は同世代の女子に比べて、出るべき所は出て、締まる所は締まっており、かなりの高水準に達していると言っていい。
冷遇はされていたものの、日々の訓練の成果はそういう所にも出てはいたという事だろう。
だが、そのせいでゴブリンどもにとっては、極上の獲物に見えているにちがいない。
そんな、好色ヒヒジジイを思わせる色欲に染まった視線に晒され、レイアストの女性としての本能が、過去最大のレベルで警鐘を鳴らしまくっていた!
(お、落ち着いて……私なら、こいつらよりも速く動ける……ハズ!)
数が多いとはいえ、所詮はゴブリンだ。
囲みを抜け、全力で駆け抜ければ逃げ切れるだろう。
(よし……そうと決まれば……)
意を決し、レイアストは行動に移った!
「あ……!」
急に間の抜けた声を漏らし、あらぬ方向へ顔を向けるレイアスト。
すると、それに釣られてゴブリンどもも彼女と同じ方向へ視線を向けた。
その瞬間!
ダッシュで動き出したレイアストは、真正面にいたゴブリンを蹴り倒すと、そのまま囲みを抜けて全速力で逃走する!
「ギャギィ!ギャギャア!」
不意打ちを決め、走り去ろうとするレイアスト背中に、ゴブリンどもの怒声が叩きつけられる!
さらに、無数の足音が彼女を追って来るのが聞こえた!
(つ、捕まったら犯されるっ!)
先程のゴブリンどもの様子から、それだけは間違いないと直感し、レイアストへ背筋に冷たいものがゾワリと登って来るのを感じる!
そんな最悪の未来かれ逃れるためにも、レイアストはさらに必死で逃走に力を入れた!
──それからの逃走していた時間は、レイアスト主観では一時間ほどにも感じられたが、実際にはほんの十数分にも満たない。
しかし、木々の間を抜け、わずかに開けた場所へ出た所で、彼女の足は止まってしまった。
「…………うそ」
絶望にも似た呟きが、レイアストの唇から漏れ落ちる。
なぜなら、彼女の眼下にはごうごうと流れる広い川が横たわっていたからだ!
「え、ええっ!?なんで?地図には、川なんて無かったハズなのに!?」
おそらくは、逃げるのに夢中でいつの間にかルートから外れていたのだろう。
レイアストは後を振り返るが、背後からは追いすがってくるゴブリンどもの怒声が聞こえてくる!
前門の急流、後門のゴブリンという状況に、助かる方法を考える時間はあまりにも少ない!
逃げ道を探してキョロキョロとしていたレイアストだったが、不意に飛来したゴブリンからの投擲物を避けようとして、バランスを崩した!
「あ……」
間抜けな声と共に、倒れ込んだ彼女の身体が、川の方へと落ちていく。
そして、激しく水しぶきを立てながら、レイアストは水中へと没した!
(あうっ……流れが……早っ……)
あっという間に勢いに飲まれ、上下もわからなくなるほど急流に揉まれながら、彼女の意識は深い暗闇に沈んでいった……。