01 落ちこぼれの末姫
『忘れないでね、レイアスト。あなたの力は──』
以前、抱きしめられた母の腕の中で聞いた言葉。
包まれるような暖かな温もりと、誰にも聞かせないようにとの約束が、頭と胸の中に沁みわたっていく。
──これが夢だという事は、自覚している。
なぜなら、彼女は何年も通信用の魔術で作られた鏡越しでしか、母と言葉を交わしていないし、抱きしめられたのは幼かった頃の事なのだから。
それでも、あの日の誓いを忘れた事はない。
頑張っていれば、またあの温もりに触れられる……それが彼女、レイアストの辛い日々を生き抜くための、小さな希望の灯火だった。
「……ん」
まどろみの中、うっすらと瞳を開く。
どうやら、また泣いていたらしい。
濡れた頬を拭いながら、レイアストはベッドの上で体を起こした。
「また……お母さんの夢か……」
完全に覚醒しきっていない思考で、大切な人の顔を想いながら呟きを漏らす。
ここ数日、何度も同じような夢を見ていた。
月に一度、母とは魔道具越しではあるが面会をしているというのに、なぜこんなにも小さな子供だった時の夢ばかり見るのだろう。
「……私が、まともな結果を出せてないせいかな」
自虐的な含みを持った言葉が我知らずこぼれ落ちて、レイアストは大きなため息をついた。
ここ数年、母からかけられる言葉はほとんど同じような事ばかり。
曰く、『お父様のお役に立てるよう、精進しなさい』。
優しい記憶なんてまるで嘘だったかのように、会話らしい会話もなく、母から与えられるのはそんな決まりきった言葉ばかりだった。
しかし、それも仕方がないのかもしれない。
彼女、レイアストのフルネームは、レイアスト・ハウグロード。
魔族の中でも、三大魔王と呼ばれる程の有力な家系のひとつ、ハウグロード国の王デルティメアの末子である。
現在、ハウグロード国は人間の領域内のとある国へと、侵攻の手を進めていた。
そのきっかけとなったのは、二十年前の『英雄戦争』と呼ばれる、人間との大きな戦争である。
当時、現在と同じように、魔族と人間は対立し争いを続けていた。
強さでは分がある魔族と、数に勝る人間達。
状況は互いに一進一退。
そんな小競り合いが続いていた中、人間領域の数ヵ国から選りすぐりの少数精鋭で魔族領内に乗り込んできたのが、『聖剣の英雄』と呼ばれる一行である。
英雄一行は強く、迫る魔物や魔族の強者達に悉く勝利して、この国の奥まで侵攻してきた。
だが、そんな英雄達を返り討ちにしたのが、レイアストの父であるデルティメアだ。
しかし、勝利は納めたものの、肝心の聖剣の英雄は取り逃がし、デルティメア自身も深手を負った事から、うやむやのままに『英雄戦争』は幕を下ろす事になる。
そして、そんな戦いから十年という月日が流れた頃、今度は魔族領域内で内戦が勃発した。
ハウグロード国と並ぶ他の魔王達が、魔族領域での覇を唱えんと、活発に動き出したのである!
さらに、その動きに連動するようにして、人間領域のいくつかの国が、先の『英雄大戦』の汚名を返上すべく、ハウグロード国へと攻め入ってきた事により、現在まで続く泥沼のような戦いへと発展していったのだ。
始めの頃は、魔族や人間との二面作戦でも優位に事を進めていたデルティメアだったが、ここ数年は人間達の巻き返しが強くなっており、七人いる我が子達にも戦力としての期待を求めるようになっていた。
デルティメアは人間、もしくは魔族国家との戦いで、最も功績を挙げた者に次期当主の座もチラつかせており、兄弟間においても水面下ではバチバチと火花を散らしている。
が、そんな中で人間との混血であり、末子のレイアストだけは、落ちこぼれだと嘲笑の的になっていた。
生まれつき強大な魔力を持っていたにも関わらず、それをまったくコントロールする事ができなかったのが、そう呼ばれる理由である。
それでも母は優しかったのだが、それが甘えになっているのだとの理由で物心つく頃に引き剥がされ、それ以降は何年も直接顔を合わせる事もできなていない。
「私がもっとお父様の期待に添えられれば、お母さんともまた会えるんだろうけどな……」
誰もがレイアストに辛く当たる中、また母に抱きしめてもらいたい一心で、彼女は努力を続けていた。
しかし、一向に魔法は上達することはなく、ならばせめて肉体を鍛えようとするも、そちらにおいても向上の気配は見られない。
「……やっぱり、私の半分は人間だからなのかな……」
先に記した通り、レイアストの母であり、第三妃であるフレアマールは、人間であった。
敵対していたはずの魔族である父と、人間である母の間に、どのような経緯があってレイアストが産まれたのは知らない。
だが、ここ数年『父の役に立て』と告げる母の姿と声からは、それを望む強い意思が感じられた。
いったい、二人にどんな出会いがあって結ばれたのか……レイアストに、とってそんな両親の馴れ初めは、いつか母から聞いてみたい案件のひとつである。
「……よし!落ち込んでなんか、いられないわ!」
ペチペチと頬を叩き、持ち前のポジティブさを発揮させたレイアストは、むん!と拳を握って、己を鼓舞した!
そうして、ベッドから勢いよく降りると、いそいそと着替えを始める。
夜着を脱いで化粧台の前に座り、鏡を見ながら髪に櫛を通した。
あまり長くしていると訓練の邪魔だからと、肩口くらいで切り揃えているが、魔族特有の艶のある黒髪に少しハネている毛の束を撫で付けると、幼少の頃に母から『私に似た、クセのある髪の毛ね』と苦笑された事が思い出されて、レイアストの顔に微笑みが浮かぶ。
しかし、本来なら姫の立場にある彼女が、自分で身支度を整えるなどあり得ない事だろう。
だが、実力主義の魔族の中で落ちこぼれの烙印を押されているレイアストは、専属メイドの一人も付けられていないほど冷遇されている。
お陰で……と言っていいのかは分からないが、彼女は自分の世話は自分で出来るくらいの逞しさを、身につける事ができていた。
そうこうしている内に髪をとかし終え、ジャージにも似た動きやすそうな軽装へと着替え終わったレイアストは、次に母と顔合わせをする際に少しでも良い報告ができるよう、訓練のスケジュールに目を通した。
「うん、今日はこんな感じか……。それじゃあ、朝御飯を食べてから……」
気合いを入れ、まずは腹ごしらえと食堂へ向かうべく、部屋の扉に向かって歩みだした、その時。
先んじて扉をノックする音が、室内に響いた。
『失礼します、レイアスト様。ご当主様がお呼びです』
「お父様が……?」
扉の向こうから聞こえた執事の声に、レイアストは不思議そうに首を傾げる。
今まで、父から直接の呼び出しがあった事など、数えるほどしかない。
しかも、こんな朝からなんて事は初めてだ。
(いったい……何のご用かしら……)
なんとなく不安な気持ちを抱きながらも、レイアストの腹が鳴り、空腹を訴えてくる。
「あの……朝食を済ませてからでは……」
『チッ!』
扉の向こうから聞こえてきた、あからさまな舌打ちの音に、レイアストはビクリと震えた!
朝食を優先しようとしたレイアストも大概だが、執事の態度は本来なら許されるはずもない対応である。
が、それが罷り通るほどに、この城での彼女の立場は低いのだ。
「すぐに伺います……」
しょんぼりとしたレイアストは、不機嫌そうな執事に先導されて、父親である魔王の元へと向かっていった。
◆◆◆
「レイアスト様を、お連れしました」
閉ざされていた玉座の間の扉をノックし、先導してきた執事が告げる。
すると、彼女を迎え入れるように部屋の内側へ扉が開かれた。
中へ進めと執事から目で合図され、レイアストは一歩、玉座の間に踏み入る。
「!?」
次の瞬間、ゾワリとした感覚が、背筋を駆け抜ける!
まるで、猛獣の檻に迷いこんだような錯覚すら覚えるほどの圧力!
それが、視線の先に鎮座する、父親から発せられているのだと知って、レイアストは血の気が音を立てて引いていくのを感じていた。
「……遅い」
「も、も、も、申し訳ありません!」
父であるデルティメアが、ポツリと呟いただけで死を予感したレイアストは、慌てて膝をついて臣下の礼を取る!
その態度を見て、それが正解だと言わんばかりに父からの圧力が下がり、レイアストは内心でホッと胸を撫で下ろした。
「さて、レイアスト。お前は……いくつになった?」
「は、はい……十八になりました」
唐突な質問の意味がいまいち分からず、戸惑いながらもレイアストは答える。
そんな彼女の答えを聞いて、デルティメアは「ふむぅ」と小さく呟いた。
(あ、これは何かの意図があった訳じゃなくて、本当に私の年齢を知らなかったんだな……)
父の態度から、自分に興味が無いのだろうという内心が透けて見えて、レイアストの胸にチクリとした心の痛みが走る。
しかし、そんな彼女の胸中などどうでもいいデルティメアは、残念な生き物を見るような目でレイアストを見下ろした。
「十八にもなって、戦場に出れぬほど弱いとは……恥を知れ」
実の父から押される、無能の烙印。
それは、思った以上にレイアストの心にダメージを与える。
「も、申し訳ありません……ですが、訓練は続けていますので、いつかお父様のお役に立てるよう、頑張ります……」
「いつか、か……お前の訓練に付き合った者達からは、『登山に連れていけば一合目で遭難するレベル』だの、『元気なカナブンの方が手強い』だのという意見があがっているがな」
「うっ……」
その批評に、さすがのレイストアも言葉を返す事ができずに、口を噤んだ。
(まさか、そこまで低評価だったなんて……)
想像以下の酷評に、レイアストの心にヒビが入りそうになる。
しかし、心の中で奮起の声をあげると、彼女は口を開いた!
「お、恐れながら、かぶと虫くらいには成長していると、自分では思います!」
せめて、元気なカナブンどころではないと、修行の成果を主張はしてみたが、その言葉を受けたデルティメアは「そういう事じゃねぇんだが……」と、呆れた様子で天を仰いだ。
「ふぅ~………………まぁ、いい」
長く深いため息の後、再びレイアストの方へ顔を向けた父だったが、彼は思わぬ言葉を口にする。
「レイアスト、貴様に重要な任務を与えよう」
「任務……ですか?」
あまりにも意外な言葉に、レイアストも目をぱちくりさせた。
優秀な上の兄姉にならともかく、まさか自称かぶと虫程度な自分に、仕事を与えられるとは……しかも、『重要な』などどいう、枕詞のついたものが。
期待と不安で混乱しそうになる思考をなんとか抑え込み、レイアストはかろうじて平静を装っていた。
そんな彼女が、話しを聞く準備が整った事を見計らって、デルティメアは任務の内容を語り始める。
「貴様には、人間との休戦協定の使者として、人間領域にあるクルアスタ王国の王都へ、ワシの親書を届けてほしいのだ」
「きゅ、休戦協定ですか!?」
これまた意外な提案に、ついレイアストも驚きの大声を出してしまった!
個人の強さを重んじる魔族にとって、群れて戦わねばならぬ人間など、見下す対象でしかない……そういう考え方が、魔族にとって基本のような物だ。
しかも、その最たる魔王である父が、休戦を結ぼう等と考えるのだから、意外すぎるその判断に、レイアストが驚くのも無理はなかった。
「貴様も知っての通り、ワシらは魔族領域と人間領域で二面作戦を行っておる。が、今はどちらも戦況が芳しくない。なので、一方の戦場に集中するために、もう一方とは休戦しておきたいのだ」
まさか、あの父からそんな言葉が出てくるのだから、これはよほど戦局がまずいのかもしれない。
「境界を挟んで遠征気味になる人間領域より、身近な魔族領域内のケリを先につけておきたい。それまで、人間どもが手出ししてこぬようにしておきたいのだ」
「で、ですが……」
「なんだ?」
「わ、私のような半人前に、そのような大役が務まるのでしょうか……」
腕も未熟であり、ハウグロード国の領内から出たこともない世間知らず。
そんな自分に人間相手とはいえ、他国との交渉などが可能なのかと考えるのは、仕方のない事だろう。
だが父は、そんな娘が口にした心配を鼻で笑う。
「半人前だから、ちょうどいい」
「はい?」
「まずは、こちらの意思を伝える事が必要だからな。その使者が、強すぎたり好戦的な者では、相手も警戒を深めるだけだろう」
「な、なるほど……」
「それに、貴様の任務は、親書を届ける事だと言っただろう。その後の交渉には、しかるべき者を付ける」
そう言われて、レイアストも納得したように頷いて見せた。
「貴様には、母親である人間の血が半分流れているからな……純粋な魔族である者が行くより、多少は警戒されにくいだろうというのもある。しっかりと務めを果たすがいい」
「っ……はいっ!」
返事をしながら、レイアストは頭を垂れた!
母との血の繋がりが役に立つ事に、なんだか言い様のない喜びのような物が胸に溢れ、つい表情が緩みそうになってしまう。
と、そこでふと何かを思い付いたように、レイアストは恐る恐る顔をあげた。
「あ、あの~……もしも任務を首尾よく果たせたら、なのですが……」
「ん?」
耳を傾けたデルティメアに、一瞬ビビりながらも、レイアストは言葉を続けた。
「お、お母さんに、直接会わせてほしいんです!」
積年の思いを込め、彼女にしては力強く願いを口にする!
そんなレイアストを、デルティメアは黙って見下ろしていた。
(ううっ……沈黙が怖い……)
しばし流れる、緊張感に溢れた重い空気が、ひたすらつらい。
しかし、怯えるレイアストに向かって、デルティメアはあっさりと「いいだろう」と答えた。
「ほ、本当ですか!」
「褒美があった方がモチベーションが上がるというなら、作戦成功のためにもその程度の願いは許そう」
「ありがとうございます!」
デルティメアの言葉も終わらぬ内にレイアストは立ち上がると、大きのアクションで頭をさげる!
さらに、退出の許可も得ていないというのに、彼女はこうしちゃいられねぇ!とばかりに部屋を飛び出していってしまった!
「まだ、親書も渡しておらんというのに、粗忽な奴め……」
止める間もなかったおバカな娘に、デルティメアは大きなため息をひとつ吐いた。
◆
レイアストが退室し、再び玉座の間に沈黙が訪れる。
だが、静かになった室内で側近として影のように控えていた、レイアストの兄でもある息子の一人が、ソッとデルティメアに声をかけた。
「父上……本当に、あいつで大丈夫なのですか?」
身内を案ずる……というよりは、作戦の安否を気遣うような響きが、彼の声には含まれている。
そんな息子の問いに、デルティメアの唇の端がクッと上がり、含み笑いが漏れだした。
「かまわんさ……精々、ワシの役に立ってもらおう」
小さな含み笑いの声を響かせながら、デルティメアは実の娘に向けるとは思えぬほど、酷薄な笑みを浮かべていた。