スカートめくり
ある高校生の読書感想文。
本の感想を書くより、自分語りをした方が、高評価を得やすいらしいですね。
私には姉と兄がいる。
姉は小学校低学年くらいまで頻繁に兄と喧嘩し、その度に兄を一方的に殴っていた。
姉が、四つ離れた妹である私を殴ることはそう多くなかったが、二つしか違わない兄は遠慮なく私を殴った。
両親は兄や私が泣かされると宥めてくれたが、喧嘩をなくすこと自体には真剣でなかった。
そのため、私は物心も付かない内から、どうやって姉と兄に対抗するかを考える小賢しい子供になっていた。
そうして私が選び取ったのは、末っ子であることを武器に、両親の前で乳飲み子のように駄々をこねる、という戦略だった。
そんな私も、祖父母にランドセルを買ってもらったのを機に、いつまでも子供であることに甘えていたくないとの向上心に駆られ、姉と同様に「しっかり者のお姉さん」になることを決意した。
しかし、小学校とはつまるところ、兄に暴力を振るっていた頃の姉と同程度の野蛮人どもが、教室と称する檻で日常的に「濃厚接触」し、それでありながら、お人形のような仲の良さを要求されるストレス空間であった。
姉のお下がりのワンピースを着て就学中のある日、トイレに向かおうとしていた私は、友達だと思っていた男子の一人(仮にA)にスカートを持ち上げられ、下着を露わにされるという暴挙を受けた。
私はとっさに言葉にならない声を上げ、振り返った。
だが、Aは何か得意げな笑みを浮かべるのみだった。
当時の私は、主にテレビを通して見る創作物によって、この世には女子のスカートを捲って喜ぶ男子が存在するということを予感していた。
そして、一部の女子がそのことを面白がり、自ら見せたがることも知っていた。
私たちにとって裸や下着を異性に見られることは、母親によって教えられたタブーであり、何となく恥ずかしい、いや、恥ずかしがるべきことではあった。
だが、なぜタブーなのか、その理由は分からず、考えたこともなかった。
だからこそ、中学生がわざわざ授業中に手紙を回すように、押し付けられた掟を破ることそれ自体による背徳感を楽しむ女子が、確かに存在していた。
だが、少なくとも私は、隠すべきものと教わった下半身や下着を急に衆目に晒されたとき、それを誕生日のサプライズ・パーティと同じように喜べる女子ではなかった。
そういう誤解を招くような発言をした覚えはなく、男子だけでなく女子に対しても、自分からスカートを捲って見せたことはなかった。
私が見つめていると、Aはやっと一言を発した。
後になって思えば、それは彼がその手と目で確認した下着の柄だったのだろうが、その日の靴下の柄もいちいち気に留めない私にとって、あまりにも意味不明で、脈絡のない一言だった。
私の困惑に反して、Aは謝罪も釈明もしないし、私はトイレに行きたかったので、何も言わずその場を離れた。
もし誰かに相談すれば、「男の子は、好きな女の子に悪戯するものなんだよ」、「あなたが可愛いから気を引きたいんだよ」と言われたに違いない。
急に髪を引っ張られた友達、突然お尻を叩かれた友達がそうやって宥められるのを、何度も見てきた。
だから、私は誰にも相談しなかった。
私の反応をどう受け取ったのか、Aはその後、再び私に対してスカート捲りを敢行した。
数日後だったか、数週間後だったか、もう覚えていない。
ともかく、私はAの手がスカートに触れた瞬間に反撃をした。
不本意ながら、あの一件以来、私は常にAの存在を意識していたから、心の準備はできていた。
裸や下着を見られることを、男子も女子と同じくらい屈辱に感じるのか分からなかった私は、Aが絶対に嫌がるように、兄との喧嘩で鍛えた足で彼の股間を蹴った。
Aはうずくまり、大声で泣き出した。
騒ぎを聞きつけた担任は、問答無用で私を怒鳴りつけた。
その日の内に両親が呼び出され、後日、Aとその親の前に連れていかれた。
私は断乎として口を利かなかった。
先に謝るべきAが、何も言ってこなかったからだ。
妹、弟だから、あるいは逆に姉、兄だからと我慢を強いられることが理不尽ということは誰もが知っている。
にもかかわらず、女子だから男子の悪戯を許容しろ、スカートを捲られたからと言って暴力を振るうなんて、と言われることが、小学生の私には納得できなかったし、高校生になった今も納得していない。
誰もが当たり前に受け入れている社会の在り様、もっと言えば人間関係の中には、理不尽な差別が潜んでいる、と思う。
作品冒頭で女を強姦しようと目論む男をヒーローとして描く司馬遼太郎『燃えよ剣』が、読書感想文の課題図書として推薦され、しかも学校が何の注釈も付けていない現状に、私は今もなお色濃く残る男尊女卑を感じずにはいられない。