家電花伝
半ば朽ち果てた木造寺院の中庭、そこにそびえる五重塔と相対して、一台の冷蔵庫が能を舞っていた。何かの間違いではない。現代日本人の成人男性の平均身長と同じくらいの高さの電気冷蔵庫が、そこにあった。そして、その冷蔵庫は確かに、能を演じている。転倒時に備えた補助アームと移動用キャタピラが付属しているだけで手足に相当する部品はないし、そもそも人でもないのに能を舞うとは異様な光景であり――しかもコンセントがつながっていない――それを目にした者が自分の正気を疑い「今この時、自分は幻覚を見ている」と考えたとしても、おかしくはない。だが、それを目撃している者つまり君が注視している能は幻ではない。夢幻能だ。この家庭用冷蔵庫に手足が生えているように見えても、それは能の持つ幽玄の働きゆえなのだ。だから安心して幻想の舞を鑑賞し続けるがいい。
電気冷蔵庫は一頻り舞い終えると動きを止めた。死にかけた太陽の弱々しい光が薄汚れ塗装の剥げかけた白物家電の外装を照らす。しばらく時が流れた。やがて冷蔵庫がポツリと呟く。
「やはり駄目だったか」
発生源は機械だが人間味のある声色だった。搭載された高性能な人工知能は、利用者に安心感を与えるように調整された声をスピーカーから発生させるのだ。問題は、その声に耳を傾ける者が誰もいないという点である。人類は既に絶滅していた。ただし、その高度な産業文明が製造した機械製品は動き続けている。高機能太陽電池パネルは頑丈で長持ち、しかも寿命を迎えつつある老人の太陽の微弱な日光でも強力な動力源となりえた。電源コードをコンセントに接続しなくとも使えるのだ……とはいえ、利用する者がいない冷蔵庫内は空っぽでありエネルギーの無駄遣い以外の何物でもないのだが。
冷蔵庫のスピーカーから、しわぶきとも溜息とも聞き取れる音が漏れた。底部のキャタピラが振動し、中庭に敷かれた白い玉砂利からガガガと音が鳴り始めた、その時だった。空に黒雲が急激な速さで湧き上がり、黄色い太陽を隠す。軌道上の気象衛星は雨の天気予報を出していなかったのに! と冷蔵庫は心の中で罵った。高性能でも家電は家電、雨や水に弱いので、大慌てで上部に装備された傘を広げる。極めて硬い材質の透明なビニール傘で頭上を覆ったが、足元も心配なのでアクリルのカバーを収納庫から出して全体を包む。これで安心と思った瞬間、近くに建っていた五重塔を落雷が直撃した。その衝撃で冷蔵庫が倒れる。万事休す! 冷蔵庫は転倒に弱いのだ。貧弱な手のせいで転んだら巨体を支えられず立ち上がれなかったという珍説まであるティラノサウルスと同様に、横倒しになった冷蔵庫は体を起こすのに苦戦した。補助アームが雨に濡れた玉砂利で滑り、起きるに起きられないのだ。その間にも雨脚は強まっていく。このままでは水に浸って壊れてしまう。だが……それでも構わないか、という諦めの気持ちが冷蔵庫内を満たしつつあるのも、事実だった。
アップデート用プログラムを受信するための内臓アンテナが、正体不明の怪電波を傍受した時から、こうなる定めだったと冷蔵庫は考えている。その怪電波の識別情報には『能の大成者、世阿弥が残した秘伝の舞』とのタイトルとハッシュタグ【#時空を超越する転送能力】がつけられていた。どう考えても胡散臭い通信だった。それをダウンロード&インストールしてしまったのはプログラムに記されていた付箋の注意書きのせいだ。
このプログラムに添付された地図上の転送ポイントで秘伝の舞に成功すると、超時空の門が開かれる。そう書かれていたのである。
恐るべし秘伝の舞、世阿弥を称えよ! なわけだが……だからといって、そんな怪しげなアプリを自らの体内に取り込む等、常識では考えられない。一種の自殺行為と言っても、あながち外れではないだろう。それでもソフトを実行してしまったのは理由がある。冷蔵庫は最近、自身の不調を自覚していた。家電製品は、ある日、突然、急に壊れる。その時が迫っているのでは……と感じたのだ。冷蔵庫として生まれたからには、最後に人の役に立って生涯を終えたい。そう考えた次の瞬間、秘伝の舞のすべてを網羅したプログラムは人工知能に組み込まれていた。後悔はしてない。後は、踊るだけだ。
地図に示された転送ポイントで一番近かったのが、この仏教建築の廃墟だった。転送パワーを数値化した棒グラフが最も高かった中庭で初めての能を舞い、何も起きず、最後に雷が落ちて倒れ、雨に打たれて最期の時を迎える。電気冷蔵庫の寿命の迎え方としては非凡な幕切れと言えよう。
このまま(人工知能の)意識は消え自分は消滅するのか……と考える冷蔵庫のカメラアイが、落雷を受けて燃え盛る五重塔の一階出入口から飛び出す火の玉をとらえた。土砂降りの激しい雨の中で火は消えたが中の球体は燃え残った。火の玉のように見えた何かが冷蔵庫へ転がってくる。その球体は、やがて冷蔵庫のカメラアイの前で止まった。その内部から声が流れる。
「俺のメッセージは君に届いたんだね。良かったよ。誰にも受信されないんじゃないかって思ったんだ」
雨と泥に汚れたグレープフルーツ程度の大きさの球体は何が嬉しいのかピョンピョン跳ね回って大はしゃぎである。相変わらず横倒しになったままの冷蔵庫はスピーカーから合成された音声を出した。
「君が例の電波を発信したの? 何のために?」
球体はピタッと止まった。
「悪い奴に追われて、困っていたんだよ。どうにも逃げられそうになくて、それで異世界に高跳びしようと思ったんだけど、俺のパワーだと異世界へ転移するには力不足で。秘伝の舞を使いこなす達人の力と合わせれば何とかなりそうと思って……あ、ヤバい! 奴が来る! どこかに隠れるところない? 早くしないと、もうすぐ奴が現れる!」
その球体は冷蔵庫の周りをコロコロ転がって落ち着かない様子だ。
「ここに入って!」
冷蔵庫は観音開きの扉を開け、球体を中に匿った。冷蔵庫内に逃げ込んだ球体が電波で礼を言う。
「助かったよ、この中は涼しくて快適だね。ちょっと一休みするよ」
横に倒れたままの冷蔵庫内でも過ごしやすいようで、やがて球体は鼾鼾を電波に乗せて眠り始めた。対応に困る冷蔵庫に向かって、急に強い風が吹きつけた。中は空なので冷蔵庫自体は重いが軽く――不思議な表現だ――その体がゴロンゴロンと横に転がった。庭の置石にぶつかった衝撃で偶然起き上がる。それでも内部の球体は鼾をかき続けた。よほど疲れているのか、冷蔵庫の内部が落ち着いた空間なのか、または何らかの疾患を発症したのか……あるいは小さな子供が捨てられた冷蔵庫で遊んでいて中に入り込み出られなくなるのと同じ事故案件か? 筆者にも分からない。だが、分かることもある。冷蔵庫は中に物を入れたのが、これが初めてだった。それに満足感を抱く。そして冷蔵庫は、秘伝の舞を踊るプログラムを導入したことに運命を感じた。
君は誰なの? と冷蔵庫内の球体に話しかけようと思ったら、別の人物から話しかけられた。
「今ここにケサランパサランが来たはずだ。どこへいったのか、教えろ」
冷蔵庫のカメラアイが、その人物をとらえた。強い風の中に立つ小柄な侍……いや、男ではない。総髪を後ろで結んだ、若い女の侍だった。
「もう一度だけ言うぞ。ケサランパサランは、どこにいる? 答えないのなら、武器を使ってでも口を割らせるぞ!」
冷蔵庫内の球体がプルプル震えた。
「あいつは悪い奴なんだ。俺をここから出さないで」
そんなつもりは冷蔵庫には毛頭ない。しかし事情を何一つ知らされないのはフェアではないので、状況の説明を求めた。
「君を出さないけど、何が何だか分からないのは困るよ。事情を教えて」
今は泥水に汚れているが元は白くてフワフワだったと後になって自慢げに語ったケサランパサランの説明は、こうだ。
「あの女の子は、俺が世阿弥の書『風姿花伝』を盗んだと誤解しているんだ。ちょっと読んだだけで、すぐ返したのに。犯人は俺じゃないんだ、それなのに、つけ回して、迷惑しているんだ。ホント、酷い娘だよ」
その説明を誤ってスピーカーで流してしまったので、聞いた女の侍は激高した。
「盗人のくせに何という言い草だ。許せん、その白箱ごと斬る!」
刀をスラリと抜き放ち、武器を持たない冷蔵庫へジリジリ迫る。その内部のケサランパサランが恐怖で震えた。まだ少女と言っていい年頃の娘だが、さすがは侍、恐るべき剣の圧で冷蔵庫の電圧が波打つ。少女侍の美しい顔に緊張が迸った、次の瞬間。
「えいっ!」
気合を込めて振り下ろされた刃の切っ先を、キャタピラを逆進させて上体を傾けた冷蔵庫が、わずかに開けた観音扉で真剣白刃取りした。美少女侍の顔に驚愕の色が見えた。彼女は刃を引き抜こうとした。しかし冷蔵庫は扉を全力で閉じ続ける。扉にガッチリと挟まれた刀は押し込むことも引き抜くことも出来ない。少女は力を込めた。どれほどの時間が流れたのか……遂に美少女侍は根負けした。両手を刀の柄から話し、玉砂利に膝を突く。
「私の負けだ」
冷蔵庫内のケサランパサランが言った。
「俺は本当に風姿花伝を盗んでいないよ、ただアナログデータをデジタル化して取り込んだだけだ、信じてよ」
美少女侍の耳に、その言葉は届いていないようだった。
「風姿花伝を持ち帰らないと我が父が困ってしまう、私はどうしたら良いのか……」
冷蔵庫は美少女侍に事情を尋ねた。彼女は膝に手を置いて座ったまま語った。
彼女の父で室町幕府に仕える武士、蜷川新右衛門は、友人の世阿弥が書き下ろした『風姿花伝』の感想を頼まれたのだが、読む前に何者かに盗まれてしまった。そのとき部屋にいた謎の白い毛玉ケサランパサランが犯人と思った新右衛門の娘五月は、剣術の師匠柳生十兵衛から学んだ奥義時空裂開の秘剣で異世界へ逃走した盗賊を追いかけ、ここへ来たのだという。
冷蔵庫は刃を扉に挟んだまま言った。
「泥棒から本物の『風姿花伝』を取り返したいんだね。僕で良かったら協力するよ」
その中にいるケサランパサランも言った。
「これも何かの縁だ。俺も付き合うよ。こう見えても、俺は時空の旅人でね。色々な場所を観光で歩いている。もふもふで頼りなく見えるかもしれないけど、知識は豊富だから、盗人を見つける助けにはなるさ」
冷蔵庫は観音扉を少しだけ緩めた。傾いた刀の柄を美少女侍の五月が握る。ケサランパサランは緊張で変な声を出したが、何も起こらなかった。ケサランパサランという毛玉は心配性のチキンらしい。ちょっと毛が赤くなる。色に出でにけり何とやら、なのかもしれない。その恥ずかしさを隠すため、白い毛玉は陽気に言った。
「俺たちの冒険は、これからだ!」




