中
足を震わせながら、彩香は歩く。あんなに愛していたスマートフォンを覗く気力を失い、宙をうつろに眺めたまま電車に揺られて家路を急ぐ。
足元がぬかるんでいるような感覚が気持ち悪い。アスファルトと靴が奏でるコツコツ音が、薄暗い夜道でやたらと響き渡っているように聞こえる。
そこらじゅうに営業中の店が並んでいるのに、孤独だった。まだ大勢が歩いている駅前の商店街にいながら、世界でたった一人になったような心細さがあった。
涙で瞳をうるうるさせながら彩香が向かったのは。そりゃもう当然、愛しのダーリンのところだ。
大輝のお部屋へサプライズ訪問をかましたら、ドラマチックに音楽がなり、ハグアンドキッスでハートは八割がた埋まるだろう。会いたかったよ、あやちゃん。さみしかった。
わたしも……!
そこから先に言葉は必要なくて、ただただ抱きしめるか、激しく抱き合うかは流れで決める。
そうだ、駅で待とう。途中ではたと思い立って、踵を返す。
終わりかけの商店街を逆走して、駅の改札前へ戻り、辺りを見回す。
快速の止まらない、のどかなローカル駅だ。商店街は張り切っていて古き良きムードに満ちており、高級スーパーなんかはない。
あんまり好きではない駅でも、今日は違う。愛しのカレの帰りを待つ、美人広報ポジのキャリアウーマンが、忙しい仕事の合間を縫って大切な人のところに会いに来た、うん、そんな感じ。
脳内でできあがったシナリオに少し気持ちが紛れて、何本か分の乗客を自動改札が吐き出して、三十分。
「あやちゃん」
やっと帰って来た。飲み会だの残業だの、ないだろうと思える日程ではあったが、遅くなる可能性だってあった。だが、今日はそうじゃない。定時より少し後に会社を出たらこの時間くらいかな、を見事に的中した結果になった。
彩香はにっこり笑って小さく手を振り、大輝が来るのを待つ。
ところが、一瞬の逡巡があったものの、大輝は改札からすーっと、南口出口へ向かって歩いていく。
えっえっ待って。彼氏がスルーして帰ろうとしてるんですけどwww
なんてツイートしている場合ではなくて、彩香は慌てて大輝を追った。
「ダイ君、早いよう」
「どうかしたの、今日は」
「あ、うん。あのね」
平均身長よりも少し高めの大輝のスラっとした感じが好きだった。見栄えが良くて、自慢だった。
けれど足が長い人は、歩幅が大きい。お気に入りのパンプスをやかましく鳴らしながら、彩香は早歩きしなければならない。
「早くに仕事終わったんだ」
「そうなんだ、良かったね」
「うん、だから、ほら」
ネ、で大体通じていた。大輝は読み取ってくれていた。
髪型が変わったとか、新しい服、靴、カバン、アクセサリなどを身に着けているとか、なにか伝えたいことがあるとかどうしても今日は一緒に過ごしたかったんだとか!
大輝のスピードに変化はないどころか、時速六キロを超え始めている。着いていくにはもはや小走りになるしかない。
「ダイ君、待って」
返事はない。
「ねえ」
返事はない。
「ねえってば!」
この半年間、どんな時間が流れていたのか。
彩香の脳内で走馬灯が廻りだす。
電話はあった。取らなかった。
メッセージは来た。時々きた。その大体に、今忙しい、仕事中、こんなことしてますアピール、もしくはスルー。
だって忙しかったんだもん。
イベントが毎週あるんだもん。
曜日によって取れるアイテムが違うんだもん。
ツイートし続けなきゃ、みんな見てくれないんだもん!
半泣きで追いかけていくと、大輝は商店街を出てしばらく歩いたところで止まった。
家へ向かう最短の道のりではない、寄り道した場所。
タイム弁当 本町北店
街灯と街灯の間で明るく輝く弁当屋の店先に、大輝は並んでいる。
「ダイ君」
大輝はちらりと彩香を見はするものの、なんのコメントも出してこない。
汗だくの哀れな彼女は放置したまま、野菜たっぷり肉炒め弁当のご飯をもち麦入りにしたものを頼み、他の客たちに紛れてスマホをじっと眺めている。
唇をぎゅうっとかみしめたまま涙を堪え、弁当を頼まない変な女性をみんな気にしているが、そこはやっぱり都市部の人たちで、誰も声をかけたりはしない。
弁当はあっという間に出来上がって、大輝はそれを受け取って。
彩香は黙ってその後をついて、結局二人はドラクエのような並びのまま家まで歩いて。
「ダイ君」
とうとうメソメソした声で彩香が呼びかけると、ようやく大輝は振り返って、でも、大きなため息をついた。
「もう終わったと思ってた」
電話も出ない。メッセージもロクにかえさない。会いたいとも言わない。自分のことは公式動画で見てね!
「そんな扱いされて喜ぶ男はいないよ。ただのファンと同じじゃないか。ただのファンなんかにいちいち付きまとわれてたら仕事ができないんだろ?」
大輝宅前ではっきりとした修羅場を迎えて、彩香はワナワナと唇を震わせている。
「やっと会えたし、ハッキリさせよう。もう他に好きな人がいるから。お前も元気で頑張れよ」
更なる爆撃に、足が生まれたての小鹿のようにガクガクする彩香。
「やだやだやだなんでなんでやめてよ」
やめろよ、家の前で。
大輝はひたすらにそっけない。
「好きな人って誰なの。会社の若い子?」
散々あうあうした挙句に問いかけると、大輝はまたため息をドでかくついてこう答えた。
「さっき弁当屋に寄っただろ。あそこで働いている人」
「えっえっ? さっきのお店?」
若いお兄ちゃんとおばちゃんしかいなかったように彩香は思った。
「カウンターにいた人だ」
ピシャーンと稲妻が脳天に落ちてきて、クラクラしてしまう。
カウンターにいたおばちゃんなら、はっきり覚えている。
たぶん、五十代くらいの。
あの人を。
なぜはっきり覚えているか。
女性だったけれど、角刈りにしていたから。
思い切った髪型に驚いて、こんな中年にはなりたくないとしみじみ思ったからだ。
「なんであんな角刈りのおばちゃんがいいの? 私よりも? おかしいよダイ君!」
激情のまま叫ぶと、大輝は瞳の輝きをすっと消して、冷たい声で答えた。
「いつ行っても明るくて気持ちのいい対応してくれるよ。何歳なのか、結婚してるのか知らない。だけど優しくて素敵な人だ」
彩香はまた怒って、大輝の持つ弁当の袋を掴む。
「やめろ!」
弁当には手を出すな。
よろける彩香の前に、大輝は仁王立ちして続けた。
名前は知らない。仕事ぶりがいいから、勝手に手練れさんって呼んでる。
あの人はすごく立派だ。
いつ行っても笑顔で、いつ行ってもシャキシャキしてて、若い子にはしっかり指導して、みんなに温かい食事を手渡してくれる。
おかしくなんかない。あの人は、すごく素敵だ。
「わたしよりも?」
震える問いにも、容赦なく冷静な声が応える。
「そうだよ」
泣いて走って、電車に飛び乗った。
体を震わせながら、ドアに寄り掛かったままスマホを取り出した。
いつもよりも長い時間なにも呟いていないのに、誰も心配していない。
社員からのリプライはひとつもない。社長からももちろんない。
コアなファンから「動画まだー?」のコメントがあったが、数は少ない。
家に帰って、ベッドにもたれるように座り込んだまま、彩香はツイッターの画面を眺め続けていた。
打出小雪のツイートは、どんなに遅くても夜七時で終了しているらしい。
事務的な話、イベントの案内のほかに、プレイ日記もあるが画面やグッズの写真しか載せていない。
自撮りなんかない。
アイコンだってデザイナーに頼んで作ってもらったアプリのロゴをアレンジしたものだ。
自分の履歴を遡ると、その浮かれっぷりが目に余った。
加工を加えた自撮りがいちいち表示されている上、コメントもこんなものばかりだった。
美人広報として取材を受けちゃいましたー!
とか。
人気投票一位のキャラクターのコスプレをしまーす!
とか!
毎日毎日、SNSの海ではしゃいでいた。
大輝に何度も注意されたのに。
デート中のSNSはやめてね。
彼氏の存在をいちいち「ナイショですぅ」とか書くのはどうかな。
自分の写真を載せすぎじゃない?
どういう人が見ているかわからないのがネットなんだから、少し警戒した方がいいんじゃない? とか。
なんにも考えていなかった。
これが正しいのだと思っていた。
ネット上に自分を晒しすぎるのは危険だという以外に、調子に乗りすぎた彼女にくぎを刺してくれていたんだろう。
今更真意に気が付いて、ますます落ち込んでいく。
心底自分が情けなくなって、彩香は次の日会社を休んだ。
会社からは事務的な返事だけ。
大輝へ謝罪のメッセージを送ったものの、夕方まで既読の表示はつかなかった。
ようやくきた返事も、「もういいよ」の五文字だけ。
土日を挟んで、さすがにもう休んではいられなくて出社したものの、これまでのようには振舞えない。
大輝にメッセージを送る。挨拶とか、怒ってるの? とか、短いものをいくつか送る。
けれど、見てくれたかどうかわからない。電話をしてみても留守番電話に切り替わってしまって、繋がらない。
定時に会社を出て、いてもたってもいられずに大輝の家まで向かった。
午後七時、まだ留守のようだ。
ふらふらと歩いてタイム弁当へたどり着く。
少し離れた街灯の下でじっと待ちながら考える。
まだ仕事をやめたばかりの頃、こんな風にいきなり大輝の家に来たことがあった。
大抵同じような時間に帰ってきて、ごめんね、待たせてと優しく頭をなでてくれた。
合鍵を渡そうか、と言われていたのに。
それとも一緒に暮らそうか? と提案されたのに。
仕事を始めて、浮かれて、できる女気取りになって、全部忘れてしまっていた。
「飲み会なのかな」
突然誰かに食事を誘われることだってあるだろう。
タイム弁当本町北店は十時半閉店で、そのころにはもう人通りもほとんどなくなっている。
シャッターが半分下ろされる音が鳴って、雨が降り出していた。
路上で薄暗いスポットライトを浴びたまま、彩香は悲しくて悲しくて動けずにいた。
道の隅で膝を抱えて丸くなり、急に降り出した大粒の雨に打たれている。
「どうしたの、大丈夫?」
短時間ですっかりびしょ濡れになった哀れな彩香に、傘が差しだされる。
顔を上げると、カウンターの「手練れさん」が心配そうにのぞき込んでいた。
「この間常連さんと来たよね?」
手練れさんの声はハスキーだが、ひどく優しく響く。
「こんなに濡れて、風邪ひいちゃうよ。うち、すぐそこだから」
手を引かれ立ち上がり、促されるまま彩香は歩いた。
手練れさんの家は本当にすぐ近くの、あんまりきれいではない二階建てのアパートの一階の端で、玄関もダイニングも片付ききっていてそっけないほどだ。
タオルを差し出されて髪を拭き、シンプルで飾り気のない服を借りて、薄い味のコーヒーで体を温めて。
「連絡つきそう? 彼氏を待っていたんでしょ」
声をかけられ、彩香は体を震わせている。
「わたし……、彼をないがしろにしていたんです。自分のことばっかりで、もう、許して、もらえないんです」
手練れさんはとっても優しい微笑みを浮かべて、彩香の手の甲をそっと撫でた。
「あの常連さん、昨日も来たけど寂しそうだったよ。元気ないねって声をかけたら、人生うまくいかないもんですねなんて言ってた」
きっと仲直りしたいはずだよ、と手練れさんは言う。
悪いと思っているなら、素直にごめんなさいと伝えるべきだと。
「たぶんだけど、生姜焼きが好きなんだと思うんだよね。作ってもっていって、今の気持ちを話してみたら?」
彩香はパタパタと涙をこぼして、鼻をすすり、化粧をぼろぼろに崩している。
「せっかくの美人さんが台無しだから。もう泣くのはやめよう。ね」
手練れさんが呼んでくれたタクシーに乗って、彩香は無事に家にたどり着いていた。
雨に打たれた上、こんなに落ち込んでいるのに風邪をひかずに済んで、翌朝目覚めてから、彩香はこう思った。
「わたし、バカなんだな……」