序
イルミネーションは素敵だ。壁紙が古ぼけていたって、絨毯が少しばかり色あせていたって、大抵のアラは隠してくれるから。
夜景の煌めき、雰囲気にあったこじゃれた音楽、特別感のあるお高いディナー。
お互いの前に置かれたワイングラスと、締めのデザート。
チョコレートソースは皿の全面、関係ないところにまで模様を描いている。
見つめ合う二人の間に、そっと小箱が置かれた。
流行には乗らない、こんな時のために受け継がれてきたど定番のデザイン。品があって、どこかかわいらしくて。あの店員の言葉を信じたい。マリッジリングと重ねても素敵ですよ!
働き方改革などなんのその。みんなの残業のお陰で夜景もきれいだ。
岡本大輝、三十歳。見た目、年齢、年収から計算したらきっと限りなく百点に近い、無駄なサプライズのないスマートなプロポーズと言えるだろう。
「あやちゃん」
向かいに座っているのは東野彩香、二十八歳。株式会社ブレイズオブグローリーズ、家庭用及びスマートフォン向けのゲームを開発している会社に勤めてまだ一年だが、同社の広報として活躍している。
二人の出会いは四年前で、互いの友人を通じて知り合い、何度か会ううちに付き合うことになった。
二年半前に、彩香はその時勤めていた会社を辞めている。性格の合わない同僚や先輩たちに嫌がらせを受けてのことで、それ以来派遣会社に登録したり、アルバイトをしたりしていたが、今は正社員になった。毎日いきいきと働き、いつかの落ち込みが嘘のようになり、人生にいい風が吹いてきたと感じた上での決断だった。
結婚は人生の墓場だという人間もいる。
けれど、大輝の両親はそうではなかった。二人は幸せ、姉も幸せ。結婚は幸せ×幸せの掛け算だ。
四年も人生を共にしてくれた人なのだから、責任だってとるべきだろう。
こんなポジティブな気持ちで宝石店へ赴いて、あやちゃんが好きそうなデザインをチョイスして、ディナーの予約を取った。
「ダイくん」
おや、と大輝は思った。彼女の声色から、自分の想像とは違う展開が待っていそうだと、敏感に感じ取っていた。
「私ね、今、すごく充実しているんだ」
仕事が楽しいの。面白くなってきたところなんだ。最近ちょっといろんなこと任されてて! それでね、それで!
彩香が担当しているのは、ブレイズオブグローリーズが手掛けた三つ目のアプリ、「時と光の……」というタイトルの広報活動だ。家庭用ゲームメーカーとしてやってきた会社が、二つの失敗を経て手掛けた野心作。三つ目にしてようやく成功した、会心作だった。
スタートして半年、すっかり軌道にのってスタッフは増員された。彩香もこの求人で採用されたひとりで、初心者が初めてゲームに挑戦しますという体で広報の活動をすることになった。
ツイッターでアカウントを作り、イベントがあれば告知をし、プレイリポートを動画で配信、アプリの専門誌には顔を出して掲載され、いわゆる「美人広報」として活躍していた。
服に気を遣うようになり、髪型もこまめに整え、イベントで写真を頼まれたりコスプレをしたり、社長と一緒にあちこち顔を出して。
「結婚しても、もちろん仕事はできるよ」
いい調子というべきか、調子がいいというべきか。
「でも今はね。ファンに申し訳ないかなって思うんだ」
ダイくんには悪いんだけど、少しだけ待ってくれないかナ……?
大輝はたくさんの言葉を飲み込んだ。テヘ、という擬音を聞いた気分になりながら、ふかーくふかく、ゆっくりと頷いた。
「そっか。……そっか」
世の中、前面に出てくる女性にはとりあえず「美人」という冠がつけられると大輝は感じている。
それは、ミスターとかミセスとか、THEとかそんな、つけなきゃいけないからつけているだけのヤツじゃん、と思っている。
彩香は決してブスではない。かわいらしい女性だ。それは間違いない。でも、それ以上でもない。
「そういうもの」だと受け止めていてくれているのだろうと思っていたのに。
SNS上に垂れ流される、見ちゃいられない内輪の超寒いノリも、仕事だからやっているものだと信じていたのに。
「そう、なんだよね、なんか、こんな風になるとは思ってもみなかったんだけど」
まさかのタレント気取り。勘違い。ああ、がっかりここに極まれり。
「わかった。じゃあこれは、ここにまだしまっておくことにするよ」
指輪の箱はパコンと閉まって、大輝のスーツの内ポケットの中へ帰還していく。
「ダイくん、ありがとう。理解してくれて」
できる男は本音のかけらも漏らさずに、今夜は解散。ツイッター更新しなきゃいけないからとウキウキでスマホを眺めるカノジョを家まで送ると、大輝は心底がっかりした気分で一人、家に帰った。