プロローグ 絶縁3
イルシア・ファー・ドロンは学園内でも有名な生徒の一人だ。190センチ近い身長に鍛え抜かれた体躯。騎士団規定の長さに切りそろえられた真っ赤な髪は彼の愚直さを表している。
寡黙なこの男の父は現王国騎士団団長だ。祖父も曾祖父も、それから2人の兄も騎士団の所属である。生粋の軍事家系であるドロン家は国王からも絶大な信頼を得ており、その地位は伯爵という立場ながらも群を抜いて高い。その証拠に彼もまた生徒会メンバーの一員である。
生徒会会計。それこそが彼の肩書きだ。もっとも、会計としての仕事はほとんどせずトレーニングに明け暮れているが。ちなみにその仕事のしわ寄せは私に来ていた。端的に言えば脳筋なのだ。おまけに妙にクールぶった。
「まさか、そこまで貴様がここまで墜ちていたとはな。サーシャに対する蛮行など、かわいく見える」
イルシアは剣を抜いた。何度注意しても校内に剣を持ち込む頭の弱いこの男は、アロア様と同様イルシアに惚れている。本人は口にこそ出さないがこの堅物がサーシャの前だけニコニコと笑うのだ。どんな鈍感でも気づくだろう。
イルシアは魔物を睨む。
「まずは魔物。お前からだ。我が剣のさびとなれ」
「馬鹿かお前」
恥ずかしげもなくそんな台詞を吐くイルシアに、魔物は冷静にそう言い放った。腕組みをしたまま呆れたようにイルシアを眺める。
「こんな狭い場所で剣術とはいかがなものかと思うがな。トイレに行くのに馬車を出すのか?」
「………」
イルシアは顔をしかめつつ、剣を鞘に戻した。本当に馬鹿だ、この男。
「貴様の口車に乗っておいてやろう。だが、なめるな? 俺は体術でも学園首位の成績を収めている」
「そうか。ファイアーボール!!」
魔物は流れるように火炎魔法の詠唱をした。目がくらむような光の後、爆音。そして肌を焼くような熱気。反射的につむった目を開くと魔物がこちらに笑いかけていた。
「先ほど魔王軍に味方した者は死刑だと言っていたが? お前、大丈夫か」
「頭の固い彼の理屈ではね。魔族から脅されたということにしておけば、この国の司法では裁けないわ」
扉の外に目をやるとイルシアがうめき声を上げている。持ち前の反射神経で直撃は避けたらしく、生きているようだ。剣士同士の模擬戦しか行わない騎士団らしい末路である。訓練場の教本に載せたいくらいだ。
「人間。俺と一緒に来るか?」
「どうせこのまま残ってもろくなことになりそうもないわね。いいわ。私を連れていきなさいな」
「言葉遣いは気になるが……まあいい。治療の礼だ」
魔物が私の体を持ち上げる。お姫様抱っこのような形だ。細身に見えるが意外に筋肉はあるらしい。
「ヘレン・ミラー・ハルシュタルよ」
「ランスだ」
簡単な自己紹介をすると魔物―――ランスは走り出した。ビュンビュンと風を切る音。何かの割れる音。人々との悲鳴、怒号。騎士団や学園生徒の驚く顔がまるで走馬灯のように流れていく。
「ふははは! 未来の女王はこの俺が誘拐していくぞ! ふはは!」
ご丁寧に私が罪に問われないように下手な演技までしている。思わず吹き出してしまったが大丈夫だろうか。
家族への裏切り。友への裏切り。祖国への裏切り。二度と私はこの国に戻れないだろう。後悔することになるかもしれない。だけど。
この胸の高鳴りは本物だ。
●○
1時間ほど経過した頃だろう。ようやく私はランスの手から地上に降り立った。
「うわぁ……」
当然のことながら、辺りの景色は一変していた。石造りの建物に豪華絢爛な絨毯が敷かれた学園とは違い、そこは巨木が屹立する森の中のようだった。木々のざわめき、鳥のさえずりが聞こえてくる。
「王都から歩いて三日ほどの場所だ。中規模な山地帯の麓に広がる森。人間はリチギの森とか呼んでいたな」
「聞いたことないわね」
「ま、大きな森じゃないからな。ちなみに、あそこが俺たちの家だ」
ランスが指さす方向には古ぼけた小屋が建っていた。木造の家らしいが、その外壁はツタで覆われている。
「元々は狩人の泊まり込みの小屋だったようだ。魔物の動きが活発化する時期に小屋にこもって魔物を狩り、冬場は村に戻って過ごすわけだ。もっとも、ここ二、三年は使われていないようだがな」
そう言いながらランスが木造の扉を開ける。中は埃っぽく、古ぼけたベッドと食卓があるだけで殺風景なものだった。
「欲しいものがあったら町から調達してきてやる。それから、小屋の周りに結界を張っておこう。強力な魔物でない限りそれで防げるはずだ」
こうして、ランスと私の奇妙な共同生活が始まった。