ストップ!令嬢バブル崩壊
この国の、高貴な女性の朝は遅い。
社交で夜が遅いこと。支度に準備がかかること。それから、その支度に人の手を借りるため、あまり早く起きると使用人の労働環境を圧迫することが理由に挙げられる。
18歳未満の女子に社交界はまだ関係ない上、私たち三人は男子に混じって朝から授業を受けるため、自分ひとりで身支度できる。
それでも、女子の朝は遅いという社会通念に、特別抗う理由を見つけられず、慣例に従っている。偏見に負けているとも言えるが、どうせならその抗う気力は、朝が早いの遅いのなんてくだらないことではなく、大事なことに温存しておきたい。
そういうわけで、私たち三人は、やはり昼前ぐらいに馬車へと乗り込んだのだった。
バーレイウォール家の馬車に、ケイトリン、セレーナ、私の三人が乗り、フィリップとクロードが御者に付いた。そして後続の馬車に、それぞれ連れてきた侍女と荷物を乗せ、旅はようやく、当初私が期待していたような、友人とのバカンスという体を成した。
途中細かに休憩を取る上、一日の移動は三、四時間程度。
貴婦人の旅行日程が長いのは、何の捻りもなく、移動時間の短さゆえである。
昨日の宿場町が、伝統と流行を取り合わせた、小王都と呼ぶに相応しい瀟洒な観光地であったのに対し、見えてきた次の町は開放感のあるリゾート地の風情が強い。
計ったかのように、いや、おそらく従者たちの計算どおりなのだろう。馬車はお茶の時間ぴったりに、二つ目の宿場町の大きな建物の前に泊まった。
クロードが扉を開けて、一人ずつ丁寧に手を取って降車をエスコートしてくれる。
入口には従業員たちがずらりと並び、私たちを待っていた。
「ここが今日の宿?」
「はい。この街は、ユグドラでは数少ない温泉地で、宿はスパを併設しております。馬車でお疲れのお嬢様方にリラクゼーションをご用意いたしました」
「温泉!」
この国にも温泉があったんだ!初めて知った。スパを併設ということは、温泉宿みたいな施設なのかしら!
旅の楽しみは数あれど、温泉の素晴らしさは格別!嬉しいサプライズだ。
しかし……。
ユグドラの温泉は、私の思っているものとは違っていた。
ラウンジに通された私たちは、そこでしばらく休憩してフルーツを頂いた。
それから肌触りの良い専用のワンピースに着替え、低温のミストサウナに入った。
ミストサウナの広い室内は、ユグドラには自生していない熱帯の植物が展示されて、温室のようになっている。落ち着いたアースカラーのタイルに色鮮やかな花と緑。ミストには香料が含まれていてとてもいい香りだ。
サウナには入りたいだけ入らせてもらえるわけでなく、花を見ながら散策している内に時間は終了。その後はミネラルたっぷりの泥パックや、アロマオイルのエステを受けた。
「こういうのって、もっと大人のマダムが利用するイメージで……。なんだかちょっと気恥ずかしいわね」
セレーナの呟きが聞こえる。
私たちは一つの部屋で、衝立を隔てて施術を受けている。
「そうねぇ。大人っぽい遊びをしているみたいでドキドキするわぁ。マッサージはくすぐったいけれど……」
ケイトリンが返事をした。
手入れの行き届いた深窓の令嬢で、本物のティーンエイジャーには、エステは気持ちよさより、くすぐったい気持ちが勝るようだが、心が四十路の私にとっては至高の時間だ。
世間知らずで、品物の良し悪しに疎い私でも、そこはかとなく感じられる、オイルをはじめとした化粧品の高級感に、エステティシャンの繊細な指圧は夢見心地。友人たちのさざめくようなお喋りをBGMに、私はまどろみから本格的な睡眠へと滑り落ちた。
「お嬢様、お嬢様。施術が終了いたしました。まだお休みになるのでしたら、このままお部屋へお運びすることもできますが」
ハァッ!!!
また寝てた!!
寝てしまったら、せっかく気持ち良くても覚えてないからもったいない!
大貴族の令嬢で、資産も持っているのに、根本的な貧乏性は抜けきらない。
スパのスタッフの声で飛び起きた私を、ケイトリンとセレーナが心配そうに見ていた。
多分私は白目をむいてよだれを垂らしていたと思うのよね。寝ている間のことは分からないけど、マッサージで寝てる人って大抵そうじゃない?
「ローゼリカ、起きられそう?」
「リラクゼーションでも、慣れないことは疲れてしまいますわよね。あなたは家と学校の行き来以外、ほとんど外に出たこともないのだもの」
私の深窓令嬢評価指数がストップ高!
昨日昼寝が長すぎて、明け方まで眠れなかったから、寝落ちしちゃっただけだよ!?
今後、少しの失態でバブル崩壊待ったなし!!
その後は、宿から見える景色を皆で楽しんだりして、のんびりとつつがなく過ごし、夕食を食べて解散した。
本来であれば夜のお楽しみはここからだ。テーブルゲームに興じるつもりでいたのに、二人に早く寝ろと部屋へ返されてしまった。
私は特にやることもなく手持無沙汰で、光量を絞って落ち着いた雰囲気の部屋の寝椅子でごろりと横になった。
せっかくなので、シャロン達にも交代で風呂に入るように言い、今部屋にはクロードとフィリップが詰めている。
「姫様、硬い椅子ではなく、ベッドでお休みになった方が……」
「んー……、もうちょっと」
クロードの気遣いにも、私は生返事で寝返りをうつ。
持ってきた本でも読もうか。
欲を言えば本当は、風呂に入りたい。寝る前に空いたこの時間に、もうひとッ風呂浴びるのが、温泉宿の醍醐味ではないか。
しかし、せっかく全身ピカピカに磨いてもらって、いい香りのボディクリームを塗りこんであるのが流れてしまうのはもったいない。
天然露天風呂の源泉かけ流し大浴場に浸かれるなら、そんなことはお構いなしに露天風呂を選んだが、残念ながらミストサウナは、私の温泉宿醍醐味判定に辛くも届かない。
アレはアレでとっても気持ちよかったけどね。
「ねえ、クロード。サウナじゃなくて、浸かるタイプの温泉ってないのかしら?」
スパのスタッフの話によると、この国の温泉療法は、主にサウナと飲泉らしい。温泉を熱源としたサウナと、ミネラル豊富な水を薬のように飲んだり、料理に使うのが主流の利用法だとか。
そもそもユグドラは乾燥した風土で、あまり湯舟に浸かる習慣がない。シャワーで軽く埃を流せば充分で、過度の入浴は体に必要な油分まで洗い流してしまうからだ。
私は前世の風習を捨てきれず、無理を言って、ゆったり浸かれる浴槽を屋敷の自室に特別設えてもらっている。
「浸かるというと、温泉をバスタブに貯めるのですか?」
「そう。湧き出ている温泉なら贅沢に使えるでしょう」
「それくらいなら……。この部屋に備わっている浴室で出来ないか確認してまいります」
「あっ、そうじゃなくてね。もっと広ーい池や噴水みたいな場所にお湯を貯めて、のんびり足を伸ばして浸かるの。それか、そんなに大きくなくても、景色が楽しめるよう、浴槽が外に……」
クロードはギョっとして、大きな目をますます見開いた。
「えッッッ!?……外、ですか?浴室ですよね?」
「う、うーん。そうなんだけど、テラスみたいに屋根があって、半分外って感じで……。外からは見えないように囲いがあるの。景色は箱庭でもいいわね。汚れを落とすというよりは、体を温めて、リラックスすることが目的の場所よ」
「景色が楽しめるほど広大な、入浴もできるリラクゼーション空間ですか。確かにこの宿のミストサウナは見事でしたね。そこに巨大なバスタブがあるようなイメージ、と」
「そう!そういうお風呂に入れたら素敵じゃない?」
「源泉を利用すれば、膨大な量の温水を確保することも可能です。さすが姫様。そのように贅沢な空間を独り占めとは、古代の王のごとき豪勢な思い付きです」
クロードは褒めているつもりなのだろう。身長193cmあっても可愛らしい顔でにっこりと微笑む。
「んん……?」
なんか会話がかみ合わないな。
「えーっと、そうね。豪華な時間の過ごし方には違いないけど、独り占めってわけじゃなくて……。大衆浴場と言えばいいかな。大勢で利用するから広いのよ」
「大衆……?浴…場……??」
クロードはさっぱり判らんという顔で目を白黒させた。
混乱するクロードに代わって、フィリップが会話に参加する。
「風呂ではありませんが、街の北側には温泉を利用したプールがありましたよ。湯に浸かるのなら姫様のイメージに近いんじゃないかな。ねえ、クロード」
ユグドラ国民は、水辺に暮らしている一部と、士官学校を卒業した人間しか泳げない。あとはプールを自宅に持つような令息の趣味で、乗馬よりもさらにマイナーである。
さらに言うと、重いドレスで水に落ちたらまず間違いなく死ぬので、士官候補生以外の貴族女性は、水泳の習得を無意味なものと捉えている。
王都に住む女の私が泳げる機会は非常にレアだ。転生したこの体でも泳げるか興味はある。
「それから、新しくできた話題のスパがあるそうです。姫様のご希望に沿うかはわかりませんが、温泉を色々な方法で楽しめるとか。こちらが利用できるか調べてみてもよいかもしれません」
「それは楽しそうね」
理想と違ったとしても、国によって違う温泉の楽しみ方を知るのも一興だ。
「すぐに問い合わせしてまいります」
私の乗り気な返事を聞くや否や、クロードは部屋を飛び出していった。
「僕がスパの前を通った時に見たのは、足元を小川のように流れる浅い温泉でした。足をつけるだけで、温まった血がめぐって、体全体が温まるそうです」
足湯じゃん。
「誰でも利用して良いみたいで、浅い温泉に浸かりながら、併設したカフェテリアで買ったものを食べている人が多かったですね」
なかなか商売上手ね。
「建物自体はそんなに大きくなかったので、豪華な浴室があるかはわかりませんけれど、散策して変わった温泉に浸かるだけでも、姫様には新鮮な体験だと思います」
そこへクロードが部屋へ帰ってきた。
「ずいぶん早かったのね」
「はい。ちょうど件のスパの従業員が営業に来ておりました。姫様はまさに天運に愛されしお方です」
よくわからない褒めを挟まなくてよろしい。
「姫様が仰った通りの、箱庭を見ながら入れる風呂があるそうです。広くはないとのことでしたが」
「行ってみたいわ。いつならいいの?今から入れる?」
「夕方から夜は人気で、いっぱいだとか。午前中は空いているようですが、出立の時間に差し支えるかもしれません。先方は、姫様が来て下さるなら普通の時間より早く開けても良いと言っています」
「厚意に甘えてもいいのかしら」
「構わないでしょう。こちらとしても、姫様にご満足いただけるなら、チップをはずむくらい何でもありません。お互いに利のある取引です」
なるほど。札束で横っ面を引っ叩くってわけ。
いや、実際にそんなんしてたら引くけど。
「ありがとう、クロード!親切なお店の人には、十二分にお支払いしてね」
楽しみな明日の予定ができた。私が上機嫌になると、クロードもフィリップも満足そうに頷いた。
「お任せください」




