契約結婚系主人公 イリアスの憂鬱 前編
ちょこっと番外編を挟みたかっただけなのに、全然終わらない。長い。
別けて投稿します。
夜は弟妹達を寝かしつけながら早くに眠り、朝は夜明けとともに起きる。
走って丘に登り、朝日を浴びて、一人静かに本を読む。
少々の畑仕事と、今日食べる分の収穫をして家に帰れば、火を炊いて食材を待っている母が居る。
博識で少年の心を持つ父は、予算の付かない学者で、晴耕雨読の毎日。
賢く働き者の母は、この国の風習にも言葉にも不慣れな異国の出身。
賑やかで愛らしい弟妹に囲まれて、決して裕福ではないけれど、体が丈夫なおかげで、余裕のない暮らしを辛いと思ったことはない。
そんな日常がもうすぐ変わろうとしている。
ポーチまで戻ってきたところで、父があくびをしながら家から出てきた。
「おはよう、父さん。どこ行くの」
「畑の様子を見に行こうかと」
「もう済ませたよ。今日は侯爵様がいらっしゃるから忙しいだろう?すぐ食事にしよう」
「そうか、ありがとう。最近、勉強の方はどうだい?」
「問題ないよ。奨学生考査は通ると思う。成績上位者になれるかはわからないけど、受験するのは来年だからね」
「本当に今年受けなくていいのかい?母さんはお産も慣れているし、心配はいらないよ」
「判ってても、心配で集中できないよ。受験の方こそ、焦るようなことじゃないだろ」
「勿論そうだが」
「士官資格の実技では、どうしても体格差が成績に表れるんだって。俺みたいな八月生まれは、わざと一年遅らせるのも、珍しくはないみたいだよ」
「わかった。でも気が変わったら言いなさい。進路くらいは自由に選んでほしいんだ」
「そのつもりだよ。この野菜、キッチンまで持っていって。俺は弟たちを起こしてくる」
隙間なく二つ並べたベッドの上で眠る弟たちは、自分が起きた時と、また違った風に折り重なっている。
「皆起きなさい。朝ごはんだ」
隅の方で丸まっている紅一点の妹は、今日、バーレイウォール家へ養女に出される。
事のきっかけは、バーレイウォール侯爵家のご当主、ユージィン・バーレイウォール様が父の研究に出資してくださる話から始まった。
貴人による慈善活動はこの国の社会通念であり、紳士淑女の嗜みである。それでもその恩恵を享受できるのは非常に幸運で、また父の研究が認められた事には誇らしさもあって、家族一同とても喜んだ。
出資の打ち合わせの最中、お互いの娘の話になり、我が家の窮状と先方の後継問題から話がまとまった。
バーレイウォール家は、歴史や地理の教科書にも名前が載っている名門である。
使用人として取り立てられることすら、将来安泰の良い話。ましてや養子縁組など夢物語のようだ。
家が手狭な事、女兄妹が一人のこともあり、妹は大きくなったら、どの道結婚が決まるまで、学校で寮生活か、修道院に見習いに出される予定であった。
少し予定が早まっても、きちんとした淑女教育を施し、嫁ぎ先まで面倒を見てくれるとなれば、これ以上の話はない。
器量の良い妹の事だ。後ろ盾さえあれば、良縁は選り取り見取りだろう。
少し寂しくなるが、お姫様のような義姉ができるとあって、妹もこの話に乗り気だ。
家は王都からさほど遠くない。離れても、会いたくなればいつでも会える。
自分も来年には王都で下宿生活だ。
環境が変わっても、家族の幸せを願う気持ちは変わらない。
準備万端整えて、迎えた侯爵閣下は、絵物語もかくやという完璧な貴公子だった。
整った顔立ち、人好きのする笑顔、誠実で優しい話し方に洗練された物腰。
都会の人はみなこうなのかと、圧倒された。
ともあれ、このような人物ならば、妹を悪いようにはすまいと、寂しさを我慢しながらも、安心して見送る段になってから、突然妹が泣き出してしまったのだった。
妹は、自分一人が家族と離れてしまう事を理解していなかったのであろうか。
頭では理解していても、気持ちがついていかなかったのであろうか。
土壇場で新しい家族に泣かれてしまった侯爵様は立つ瀬がない。
本当にいい話なのに勿体ない、侯爵様の面子を潰してはマズイとか、このせいで出資の話が立ち消えになっては困るとか、数々の打算が浮かんだが、それでも8つになったばかりの妹を責める気持ちにはなれなかった。
自分以外も寂しさを我慢していた。
妹が泣き出して、家族全員がその寂しさを我慢できなくなった。
その事実に、家族の絆が浮かび上がったような気がして、困った事態にも関わらず、ほっと安堵を覚えてしまった。
侯爵様は気分を害して不思議はない状況でも、根気よく家族の意向を確認してくださった。
そうして一晩かけてもう一度家族でよく話し合ってから、明日結論を出すということになった。
無理やり連れて行くでもなく、かといって簡単に諦めるわけでもない対応に、侯爵様の誠実さを感じた。
誰でも良かったわけでなく、我が妹こそ養女に選んでくださったのだ。
一晩宿泊されることになり、両親と俺はより一層慌てた。
我らが賤屋には、侯爵様の滞在に相応しい部屋はもとより、客間すらありはしない。
侯爵様は旅慣れているので、気遣いは無用、馬車でも眠れると仰ったが、それではあまりに申し訳ない。リビングのソファに、この家でありったけの一番上等な布を用意して、泊っていただく。
精一杯のもてなしで一緒に取った夕食は、とても楽しい時間だった。侯爵様はお話上手で、妹もすっかり懐いた。
これならば、きっと明日、寂しいながらも妹はバーレイウォール邸へ行くだろう。
だが、就寝の時、いつも思い思いに広がって眠っている弟妹達が、ひと塊になってしくしく嗚咽を漏らしているのを聞くと、胸が締め付けられた。
俺なら、これがどんな幸運かを自覚して、帰りたければいつでも帰れると自分に言い聞かせて、迷わずバーレイウォール邸へ行くと自信を持って言える。
でも4年前の、8歳の頃ならどうだろう。
家族と離れる不安と悲しみに打ち勝っていたかどうか。
密かに子供部屋を抜け出し、リビングへと向かった。
侯爵、ユージィン・バーレイウォール様は、ソファで横になり、小さな手元灯りで本を読んでいらっしゃった。
「失礼します、侯爵様。今、少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
「ああ、イリアスだね。少しと言わずにどうぞ、いつもまだ寝る時間ではないから、寝付けずにいたところだ」
「差し出がましきことながら、単刀直入に申し上げます」
侯爵様が身じろぎしている間に、俺は二の句を継いだ。
どんなに持って回ったところで、これから発言する内容が、厚かましい事にかわりはない。
「明日、妹の代わりに、俺を連れて帰ってはいただけませんか」
「ふむ」
彼は驚くことなく、ただ少し思案した。
「イリアス、君は聡い子だね。二者択一の膠着状態を打開するために選択肢を増やし、それを私に選ばせることで、交渉の着地点を用意した。理に適っている」
「そこまで考えての事ではありません」
「尚更、筋がいい。少し話そう。掛けなさい」
侯爵様は起き上がって、ソファの隣に俺を座らせた。
「奨学生考査に通るほどの秀才と御父上から聞いているよ。専攻などはまだ考えていないかもしれないが、興味のある分野は何かな」
「奨学生必須の法律と経済、それから農学もすこし」
「渉外はどうだろう」
渉外は外部組織との連絡交渉。外交を生業とするバーレイウォールのお家芸だ。つまり先ほどの申し出の色よい返事ではないだろうか。
俺は勢い込んで答える。
「もちろん、あります」
「私は君が気に入った。ただし事前にハッキリさせておこう。妹の事で、君が責任を感じる必要はないんだよ。心の整理がつくまで待ってもいいし、どうしても嫌なら他の娘を探してもいい。
資金援助の件も心配いらない。学問への投資は、養子縁組とは全く無関係の話だ。
その上で、君が我が家へ来たければ来なさい」
それは優しいようでいて、言い訳を断つ宣言だった。
妹の身代わりでもなければ、資金援助の交換条件でもない。
仕方なくではなく、自由意志と覚悟を持って来なさい、と。
「……」
さすがに即答できずに言いよどんだ。
「雰囲気に流されるのはよくない。明日、君から言いださなければ、この話は聞かなかったことにする。一晩ゆっくり考えなさい。だが、私が体よく断ったのだと君が考えない為に、我が家へ来てくれた時の条件を伝えておこう」
「まずは衣食住と学費の保証。必要ならばより専門的な教師も手配しよう。バーレイウォール家の人間として、少し変えてもらわねばならない習慣もあるかもしれないが、君ならば問題ないと確信しているよ。
それから君は長兄として家族をよく支えているようだ。君を預かり受ける以上、メイドと乳母をバーレイウォール家から派遣する。君自身が、もう必要ないと判断するまで」
侯爵様は俺が断る理由を一つ一つ丁寧に潰していくように条件を付けくわえて行った。
「さらに、君がアカデミーで見事に領地管理の資格を取得した場合は、私の従属爵位の一つを与えると確約する」
爵位を複数継承している場合、呼称として使われるのは、当然最も高位の肩書である。
従属爵位とは、呼称に使われていない下位の爵位のことだ。
バーレイウォールほどの名家ならば、持っていて当然だ。
つまり、侯爵様は順当にいけば複数ある爵位のうちの一つを俺に分けてくれるというのだ。
目の前に、夢にすら見たことが無いような御馳走が並べられて、さあ召し上がれと言われたら、人はどうするだろう?
何にでも対価はつきものだ。
リスクに気づくにせよ、気づかないにせよ、喜んでかぶりつく者は器が大きい。
俺には出来ない。
それに手を付けたが最後、どんな難題が待ち受けているかと尻込みしてしまう。
「君には私がとても良い条件を出したように思えるかもしれないが、そんなことはないんだよ。奨学生から官僚になれば、小さな男爵領を所有する程度の資産を築くことが出来る。君は秀才のようだし、優秀な官僚候補をスカウトするとしたら、多少は色を付けないと話にならないからね。これは最低限の保証だ。さらに我が家の稼業を手伝ってくれるなら、この限りではない」
ユージィン様は、夢でも語るようなキラキラした瞳で話を続ける。
「さあ、ここからが本題だ。君がもし…」
優しそうでいて抜け目のない瞳が、俺をじっと覗き込む。
思わず緊張して体がこわばった。
いったいこれ以上何を言い出すのか。
「見事、我が娘を射止めたならば、バーレイウォール侯爵位をあげよう。私の、正当な跡継ぎとして」
跡継ぎとして?バーレイウォール侯爵位を?
夢物語にしたって出来すぎだ。俺はもしかして、いつの間にか寝入っていたのだろうか?
いや、単純に聞き間違いだろう。そのほうが現実的だ。
「あの、申し訳ありません。最後の方が良く聞き取れませんでした」
「聞き間違いではないよ。確かに君をバーレイウォール本家の跡継ぎにすると言った。私の娘と結婚したら、という条件だから積極的に口説き落としてくれたまえ」
「……?」
なるほど、わからん。
聞き直してもサッパリ内容が入ってこない。
娘と結婚したら?積極的に口説き落とすって誰を……?
将来を見込んで学資を持つ場合でも、普通、娘には手を出すなと釘をさす場面ではなかろうか。それを。
「お嬢様の…伴侶候補にする…と?」
「他の意味があるなら、逆に聞かせてもらいたいね」
「俺がお嬢様に気に入られさえすれば良いとお考えですか。不誠実な者かもしれないとは思われないのでしょうか」
名家の結婚は、綺麗ごとだけでは成り立たないだろうが、野心を刺激するようなセット売りとは穏やかでない。妹もこのように嫁ぎ先を決められてしまうのかと、不満がむき出しになってしまった。
「私の娘を甘く見ない方が良い。王都の高貴な美姫に見慣れた第二王子を骨抜きにするような女だよ。君の手に負えるのならば、見込んだ甲斐もある」
侯爵様は見透かすように笑って念を押した。
「一晩よく考えなさい。良い返事を待っているよ」
話が旨すぎて怖い。
こんな条件の良い話が、ひたすら都合の良い幸運が、ホイホイと転がっているものか。
騙されているのではないかとも考えた。しかし相手は正真正銘の侯爵閣下だ。我が家をだますメリットはない。
誰もが羨む成功譚は、血のにじむような努力の先にある物と思っていたが…、しかし同時に幸運にも支えられてもいるだろう。
つまり、俺は成功のための最初の幸運に恵まれたということなのかもしれない。
この好機だって、奨学生考査に通る実力がなければ巡ってはこなかっただろうから。
そう考えると、少々尻込みしたとしても、俺の返事は「はい」しかなかった。
ここで決断せずして、一体何のためにアカデミーへ行くというのか。
すべては立身出世の為。家族を立派に養うためだ。
お嬢様を落とす落とさないは別にして、奨学生がアカデミーを卒業するための必須条件である『領地管理資格』を取得するという当初の目的を果たせば、爵位の一つをくれるというのだから、話に乗らない手はない。
翌日、俺は両親にも侯爵様にも決意を表明し、侯爵様は両親の手元に、昨日話した条件の誓約書を残した。
そして俺は、少ない勉強道具だけを鞄につめて、開き直りと共に車に乗り込んだのだった。
車の中では、今後の事、侯爵家の系譜の話を聞いた。
話によると、父は侯爵家の傍流らしい。
バーレイウォール家から婿養子を出して類縁を繋いだ家柄の、さらにそこから数世代を経た傍流で、今はもうただの平民ではあるが、それでも配偶者を介した遠縁ではなく、正真正銘血を受け継いでいるということだ。
実は、我が家がバーレイウォールの系列であることは、子供ながらに知っていた。
異国出身で手芸が得意な母の刺繍を、きちんとした工芸品として、作品を求めている依頼人との仲介をしてくれたのが、トリリオン家の人だったからだ。
彼らはバーレイウォールの家老で、親類縁者の職業斡旋業務を請け負っている。少々入用な時に、通常の相場より割のいい仕事を紹介してくれたこともある。
なので、細い糸ながらも何らかのかかわりがあるとは思っていたが、まさか本家に連なる系譜だったとは思ってもみなかった。妹が養女として選ばれたのは、その縁が強いのかもしれない。
親族の多くは領地か外国にいらっしゃる為、王都のタウンハウスには、旦那様と奥様、お嬢様の三人でお住まいだとか。だから気兼ねは要らないと言われたが…。
もちろん気兼ねはするけれども、人数が多いよりは少ない方が、気疲れも少ないだろうとは俺も思う。
明日は件のお嬢様の誕生日なので、その誕生会の席で正式に俺の事を屋敷のかたたちにも紹介してくださるそうだ。家族と、お嬢様をよく知る家事使用人たちのみの気楽な会だと侯爵様はおっしゃる。
もちろん俺は気楽ではないけれども、やはりそうそうたる名門貴族が居並ぶパーティよりはマシだろう。
それから、養子を連れ帰ることはサプライズなので、歓迎するというよりは、ひたすら驚かれるだろうが、気を悪くしないで欲しいとのことだった。
養女の件は、妹が欲しいと事あるごとに侯爵様にねだっていた一人娘のお嬢様のたっての願いであるらしい。とりわけ赤毛の女子に執心で、赤毛の友人を作ろうとして王都中の貴族令嬢を呼んで、お茶会を開いたこともあるとか。
そしてうちの妹の見事な赤毛を見た時に、これだと思ったそうだ。
一番気がかりなのは、そのお嬢様のことだ。
配偶者候補として連れてこられたのだ。
気になるなという方が無理だ。
美姫に見慣れた王子を骨抜きにするというからには、やはり相当な美人なのだろう。それでいて、機知に富んだ話術があったり、あるいは小悪魔系だったりするわけか。
俄然期待してしまう。
だが、それなら何故その王子との縁談が進まないのだろう。
何か事情があるのか。それとも聞いている話と実情が違っているのか。
…わからない。
可能性について考えても仕方がない。
この絵に描いた貴公子のような侯爵様とて、人並みに親馬鹿だったりする可能性もある。
とにかく、甘い夢は見ない。
そう決めた俺の前に現れたのは。
想像を超えた美少女だった。
いよいよ車が広大な侯爵邸へと入り、荘厳な表玄関の威容が窓から見えると、一時は緊張よりも感嘆の気持ちが勝った。
恐る恐る車を降りた俺を、一人の少女が出迎えた。
頭のてっぺんから足の爪先まで、完璧に磨かれ整えられて一分の隙もない。
まるで一点ものの高級ビスクドールのようだ。
住む世界が違う。
そう思った。
豊かに流れるプラチナブロンドは、腰までの長さがあるにも関わらず、隅々までつやつやとして丁寧に梳られ、専用に誂えられたであろう藍色のドレスは、彼女の目と肌が美しく輝くように計算されつくされていた。
清純でいて賢そうな水色の瞳が、俺を見て驚いたように大きく見開かれた。
あまりにも完成したばかりの人形のようだったので、息をし、動いていることすら神秘的に思える。
彼女は、俺がこれまでに見たどの女の子よりも美しかった。
こんな。
こんなキレイな女の子と結婚できる?
そして将来的にこの巨大な屋敷の主になれるだって?
俺は理解が追い付かず、挨拶もせずにぼんやりしてしまった。
いや。
いやいやいや。
おかしい。
話の筋がおかしい。
なんのヤマもオチもない。
物語失格だ。
これでは成功譚の読み物として運の要素が強すぎるし、創意も工夫もなくて薄っぺらい。
話に起承転結を盛り込む為には…。
…そう。きっとこの美少女は、貴族へのステレオタイプを具現化したような、とんでもない我儘か性悪なのだ。
百歩譲って、根は善良でも癖が強く誤解されやすい彼女と少しずつ絆を育んでいくのでなければ、話の主筋が無くなる。
よくわからない理論で必死に予防線を張る俺を、お嬢様は親切に部屋まで案内し、丁寧に接し、気遣ってくれた。
「ありがとうございます、ローゼリカ様」
普通にいい人だ…。
だが翌日すぐに、俺の伝記を分厚くする困難な道のりは、別の所にあったのだと思い知ることになった。




