先生、全然わかりません
マグノーリア妃とリュカオン、私の三人は、バーナードの案内で父が待つ部屋に向かった。
一階の社交室や応接室が集まっている来客用区画の中でも、リュカオンの部屋は奥まった位置にある。これは一人で勝手にやってくるリュカオンが、厩舎から近い裏口を使って出入りするためである。
そこから玄関ホールにほど近い、最もよく使われるサロンに向かうと思ったのに、バーナードは廊下を逆方向へと進んだ。先ほど握手会が行われた、廊下の角に張り出すような縁側の横を通り過ぎ、家の奥側にある裏庭に面した通路を歩いていく。ここは大きな窓が連なっていて、庭の景色を絵画に見立てて目を楽しませる借景の技法が取り入れられている。
冬景色の庭に花は望むべくもないが、目に鮮やかな常緑の葉が柔らかな日差しを浴びて青々と光る姿は清々しくも美しい。
この廊下を通って、屋敷の左側へ向かうようだ。一階の左側は普段あまり使われていない区画なので意外だった。我が家は親戚も領地や外国で暮らしている上に、病弱な母のために社交も控えているので、近年はずっと広大な屋敷を持て余している。よく使う応接室の2、3室の他は、王太子妃殿下のような貴人を招く特別な部屋は手入れされていなかったように思うけれど、バーナードの案内ならば間違いはない。昨日の騒動を受けて、いくつか部屋を整えておいたのかもしれない。
父の主席執事であるバーナードは、バーレイウォール家の筆頭家老トリリオンの家長でもあり、その権限は家令をも凌ぎ、父に次ぐ。バーレイウォール家を会社に例えるならば、主席執事は秘書でなく副社長の地位だ。彼の発言は父の意向と同等に見なされ、またその認識に間違いなく、二人は考えを共有していた。つまりこの呼び出しは、私への事情聴取と妃殿下の訪問を踏まえた上での父の意向である。
そんなバーナードは、クロードと同じブルネットにヘーゼルアイで妖艶な風貌もよく似ている。生まれながらのワイルド&セクシーを教養という上品さでコーティングした美貌のイケオジは、父より五つほど年上で、大人の落ち着きと働き盛りの男臭さの全てがちょうど良い40代。
ああ~~~、いとおかし。彩りがなくとも不思議と鮮やかな常緑樹のように、何とも言えず趣深い。おじさん同士の堅い絆は、感情の種類を問わず、年月を経た分尊く得難いものだ。目にした者を問答無用で狂わせる、最高性能の全自動性癖湾曲マシーンと言えよう。
本能の赴くままに逸れてしまったが、話を少し戻そう。
事件の詳細を聞くために、父から呼び出しがある事は昨日も聞いていた通りだが、それはマグノーリア妃が帰った後でも良かったはずだ。それなのに、全員を呼んでわざわざ部屋を移したのは、何か理由があるのではないだろうか。そしてその理由は、妃殿下の言うところの、私が知っておくべき事情と関係があると思うのは考え過ぎだろうか。
バーナードの登場で続きがうやむやになってしまったが、マグノーリア妃はあの時確かに「勘違いではない」と言った。なぜ私の身柄が狙われることになったのか、その理由が「勘違いではない」と言葉通りに捉えるのなら……私には、ティターニア王家の血が流れていることになってしまう。
出生の秘密があるのは、シャロンでもリリィ・アンでもなく私だったのか?
そんなことがありえるだろうか?
確か、ティターニア王国最後のカトレアナ女王も、マグノーリア王女も一人娘だったはず。仮にティターニア王家の血が流れているなら、私はマグノーリア妃の娘ということになる。
もしそうなら、初めてマリウスの離宮でマグノーリア妃に会った時、「よくぞ」と意味深なセリフで目を潤ませていた理由づけにはなるが……。
私は斜め前を歩くリュカオンの背中を一瞥した。
その場合、リュカオンと私の関係は兄妹。
やはり不可能だ。リュカオンは10月生まれで、私は翌年の5月に生まれている。その間はわずか七か月しかない。
あるいは、リュカオンと私が入れ替わっている線はどうだろう。
その仮説も無理がある。リュカオンたち三兄弟には兄弟らしい面影がある。その上一番マグノーリア妃に似ているのがリュカオンだ。今思い出すと、背が伸びてきて男らしくなる直前の12歳ごろはさらに似ていた。
妊娠出産や子供一人が消えることは、簡単に隠し通せることではない。新生児の月齢の差は大きく、半年以上も違う子供を気付かれることなく入れ替えるのも無理だ。
どちらも現実的な話ではない。
ま、入れ替わりで出生に秘密アリなんて、さすがに安直過ぎるわね。
きっと私では考えもつかない、法の目を掻い潜る隙間のような、複雑な事情があるのだ。
あれこれ考えながら廊下を進むうちに、後ろをついて歩いていた私は息が上がってきた。その様子を見かねたリュカオンが、エスコートする時と同じように肘を差し出した。
「大丈夫……。リュカオン様は……、妃殿下の……、エスコートを……」
「必要ないのは見ればわかるだろう」
少人数で移動する場合、最も身分が高い女性の歩調に合わせるのが普通である。この場合はマグノーリア妃に当たるが、その歩くスピードがとんでもなく速い。
動き自体はしゃなりしゃなりと淑やかなのに、どういう訳か前への推進力が桁違いなのだ。足の長いバーナードやリュカオンでも本気の早歩きという具合なので、私などはほとんど小走りで追い付いている状態だった。
この健脚ぶりを見れば、マグノーリア妃が病弱で人前にあまり出ないという話は怪しいが、考えたくても歩調を合わせるのに必死で頭が回らない。
私は走っている列車に飛び乗るような気持ちでリュカオンの腕に掴まる。
それでも小走りであることに変わりはないが、リュカオンが前に引っ張ってくれるおかげでずいぶん楽になった。
鳥が翼を広げるように広がっている本館の左端まで来ると、そこから続く別館への渡り廊下へと進んだ。
別館は、病弱な母が体調を崩したり、逆に邸内で感染症が流行ったりした時に、一人でひっそりと過ごすために用意された場所である。寝室や衣裳部屋、ティールームはもちろんのこと、専用の厨房も庭園も温室まで用意されていて、豪華なお一人様大邸宅といった誂えになっていた。
渡り廊下は別館に繋がる唯一の通路で、屋根も壁もあり完全に室内だが、壁面が天井から床までの全面ガラス張りになっていて、まるで庭の中を歩いているような気分にさせてくれる。別館は昔からあったものを改装しただけだが、この渡り廊下は母のため新たに作られたという。きっと引きこもりがちな母に、少しでも開放感を味わってもらおうとする父の心遣いなのだろう。
リュカオンに掴まってできたほんの少しの余裕で、仕事をしている外の庭師に手を振る。廊下を渡り切る前に、別館の扉が向こう側から開いて、母の侍女であるフィロメルとオリオールが出迎えてくれた。ここへ来るときはいつもそうだ。
廊下側からは窓の飾り枠が目隠しになって、室内が見えないように工夫されているが、別館側からは廊下を渡る人の姿が良く見えるようで、必ず誰かが出迎えてくれる。
ここで案内がバーナードから侍女たちに交替し、私たちは応接室に通された。ようやく立ち止まって深呼吸できる。
いつもは居間を使うため、応接室に入るのは初めてだった。そしてこんな屋敷の奥まで客人が入ったのも、私の知る限り初めてだ。
別館の応接室は、打ち解けて仲良くお喋りをする場所というよりも、会議室に近い堅苦しい雰囲気がある。調度品は女性的な曲線の繊細な物ばかりだが、配置が重要な会談を行う談話室のようだ。
開いた扉の向こうには父と母がおり、やってきた私たちの姿を見て立ち上がった。
入室して、挨拶して……、お詫びやお礼の後に席に座って話が始まる一連の流れを予想したが、一向に何も進まない。
私はしばらく待ったが、それでも誰も動かない。
本気で時間が止まったのかと思うほど、長い沈黙が流れた。
私がリュカオンを見上げると、視線に気づいた彼もわからないというように小さく首を振る。
呆然と立ち尽くす両親の視線はマグノーリア妃に注がれている。
私からは妃殿下の背中しか見えない。
「…………?」
視線を集めるマグノーリア妃の表情が気になって、私はそうっと斜め後ろから覗き見ようとした。
ちょうどその時、突然マグノーリア妃が駆け出した。
表情が見えないまま、あの意味不明な推進力を発揮して、母のメイヴィスに近づく。母も駆け寄って腕を伸ばした。
「メイヴィス……!」
「クロエ……」
そして二人は堅く抱き合った。
え、な、なにこれ。
おそらく感動の再会なのだろう。しかし事情がわからないので完全に置いてけぼりを食らっている。感情を揺さぶるには順序や背景が大事なのだとよくわかる。
「お変わりなく、お元気そうでなによりです」
「あなたは少しやつれたわ。きっとわたくしが全ての苦労を押し付けてしまったからですね」
「おや、幸福で輝くばかりに美しいと評判ですのに。あなたのおかげというのは、その通りですが」
涙を流して喜んでいる二人を見て、そういえば12歳の時、王宮で初めて会ったアシュレイが、マグノーリア妃と私の母が友人であると言っていたことを、私は思い出した。
秋にリリィ・アンを尾行している時、母がティターニア出身だと知り、その話が単なる社交辞令じゃないのかもしれないと、一度は考えたが重要なことだとは思っていなかった。
しかし目の前のマグノーリア妃と母は、知人友人どころか、片時も離れがたい大親友か血を分けた家族といった距離感だ。
それなのに、何故二人は長年交流を断っていたのだろう?
話すにつれて、記憶が呼び起されたかのように、二人の会話は徐々にティターニア語になっていった。
ティターニア語とユグドラ語は文法も発音も同じだが、接頭接尾語の種類や呼応の表現、それから純粋に単語が多い。例えば程度を表す『とても』という同じ意味の副詞が、段階別に事細かに存在し、敬語も相手によって表現が豊富にある。一番難解なのは、複雑な状況や感情を表現する専用の単語があることだ。したがってティターニア語は、会話が短くなり、ゆっくり話しても内容のテンポが速くなるという特徴を持つ。
意味が全くわからない訳ではないが、聞きなれない単語で戸惑っているうちにどんどん進んでいき、話を追いきれない。しかも母のメイヴィスとマグノーリア妃は驚くほど声が似ており、発言が混同して何が何だかわからなくなってしまった。時折知っている単語を拾えるぐらいで、一体全体何の話なのか。
同じユグドラ語であっても、知らない専門用語ばかりが出てくる話は理解できないのだから、当然と言えば当然である。
そのときふと……
「『羽根』と呼ばれていたマグノーリアの侍女たちも姉妹同然に仲がよかった」
気になる意匠のカードが翻る感覚で、昨日聞いた言葉が脳裏に浮かんだ。
そうか……。
母は、マグノーリア妃の侍女だったんだ。
貴婦人として非の打ちどころがない完璧な教養も、叙爵されたばかりの男爵などと取って付けたような肩書も、亡国の王女という極めて稀有な存在と感情を露にするほど打ち解けた様子も全て。
二人が王女と侍女の関係ならば筋が通る。
疑問点は残っているけれど、目前の光景は嘘偽りのない真実だ。
長年苦楽を共にした者たちの気心が知れた不文律の空気が、そこには確かにあった。
母の隣にずっといたが、空気のようになっていた父が、同じく話についていけない私たちを呼び寄せて席を勧めた。
「リュカオン殿下、こちらへどうぞ。ローゼリカも隣に座りなさい」
近くへ寄って、どちらがどちらの声か角度の違いによってようやく判別できるようになった。
「言上すべきは数多あれど、たっての願いこそ聞し召せ」
マグノーリア妃がごく強い北方訛りで言葉を継ぐ。
ユグドラでティターニアの古風な会話が尊重されるのは、ユグドラ人にとっては古典訳のように聞こえる上品さと奥深さゆえであろう。
「御身に見合わせたまうべき人はべり。リリィ・アンなる者、王国十三騎士の裔にてぞかし」