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吸引ブラックホール

「……わかりました。誓約書にサインすればいいのね」

「その手には乗らぬと言ったぞ。必要なのは伽だ。関係を持って、懐妊の可能性が僅かでもあれば、そなたを横取りされることもなくなる」

 その言葉には胃を殴られたほどの衝撃を受けたが、私の手足はすでに冷え切っており、思考も冷静だった。自分の発言の意味をよくわかっているから、状況が重くのしかかってくる。

 ヴァンサンが、足がすくんでいる私の腕を引っ張る。私は咄嗟に振り払おうとして、やはり辞めた。いつもなら、一人で歩けると気丈に言い返すところだが、無理だと気づいてしまったからだ。

 自分で決めたことなのに、怖くて前に進めない。

 本当は毅然とした態度で自分の発言に責任を持つべきだ。それが気品だと私は信じる。往生際の悪い人間は嫌いだ。それでも、腕を引かれて、断頭台への道のりのように、とぼとぼと後ろに付き従うのが精一杯だった。


 本当にこれしか方法はないのだろうか。

 シャロンと協力すれば、今からでも何とかなるのでは?

 2人がかりで一人を拘束し、無力化することくらい……。

 …………だめだ、怖い。

 今日、私の案はことごとく裏目に出て失敗している。

 私がシャロンの助けではなく、足手まといにしかならないことは先ほど実証済みだ。

 次に賭けるのはシャロンの命になってしまう。

「待ってください!」

 隣の寝室への扉の前まで進んだところで、シャロンが追いかけてきて私を引き留めた。


「きっと何かお考えがあるんですよね?考えてもわからなかったけど、とにかくそちらの部屋に行くのは危険すぎるのでやめましょう。あとは私がなんとかしますから」

 いつもは凛としたシャロンが縋るような眼をしている。

「あなたがいなくなったら、私は言いなりになるしかない。それならはじめから言う事を聞いた方がいいわ。ね、そうしましょう?怪我だけで済んだとしても、こんな所じゃ満足な治療もできないのよ」

「わ、私が未熟でご心配をおかけしていることはわかります。しかしとても受け入れられない卑劣な要求ですよ。私はまだ戦えます。ローゼリカ様の意思がある限り、剣として戦い続けます。諦めないでください」

「右手は力が入らないんじゃない?顔も腫れてきたわ。視界が狭くなっているはずよ」

「万全とは言えませんが、勝算はあります。私を信じてください」


 私には、シャロンとヴァンサン、二人の力量はわからない。

 勿論シャロンを信じたい。

 悪党の放蕩王子なんてボンクラに決まっていると思っていたから、シャロンが吹き飛ばされるのを見るまで、彼女が負けるなんて思ってもみなかった。

 しかし、護衛も出来る侍女だとわかってからも、ヴァンサンが衛兵を呼び戻さないところを考えると、彼も腕に覚えがあると推測できる。

 それに、私を少しも傷つけたくないシャロンと、直る怪我なら別に良いと思っているヴァンサンではハンデがあるも同然だ。

 そして何より、私はシャロンの性格を分かりすぎるほどよく判っている。

 シャロンは格下が眼中になく、歯牙にもかけない。実力がないものに心理戦を仕掛けるようなことはまず無いと言っていい。体調が万全でなくても勝てるほど実力差があるのなら、彼女はすでに黙って仕事を終えているはずだ。

 相手を挑発して、冷静さを奪おうとしていたシャロン自身が、なにより分が悪いと感じているのだ。


「いつも信じてるわ。でもあなたをここに連れていたのは私よ。だから責任は私が取る」

「私にだって責任はあります。ローゼリカ様をお守りするのが私の仕事。ここであなたを犠牲に生き残ったところで、バーレイウォール邸の皆様に合わせる顔がありましょうか。たとえ刺し違えてでも、必ず、敵を殺します」

「あなたの仕事は、私の傍に居ることよ。私の剣になるというのは、いつでも私の味方でいること。命をかけてほしくない」

「剣は主のために折れることを厭いません」

「あなたは私の心を守ってくれる守り刀よ。生きて傍に居なければ役目を果たせない。わかるわね」

 シャロンの気持ちをわかってはあげられないが、想像はつく。私が逆の立場だとしても、すんなりと納得はできない。彼女がどれほど献身的に尽くしてきたか知っている。仕事を誇りに思い、努力してきたかも。今できることを全てやらなければ気が済まないはずだ。その信条を否定された屈辱はいかほどのものだろう。

 献身を望んでいないと言われ、シャロンは懇願するしかなくなった。

「どうか行かないで。お願いします」

 諦めきれないシャロンに、苛出つヴァンサンが割って入った。

「おい。時間がないと言っておるだろう。これでは約束が違う」

「わかっています。でも私の侍女と戦うならもっと時間がかかるでしょう。説得するから少し待って」


 私は手を握ったまま離せないシャロンを引き寄せて抱きしめた。

 シャロンの命と私の貞操、どちらを選ぶかなんて、改めて比べてみるまでもない。

 私は勝負に負けた。砦に着く前の想定通り、私の命は保障されている。ただ、貞操を利用されるなんてあまりに下種な発想に至らなかったのが敗因だ。

「私の誇りは、貞操と一緒に消えてなくならない。あなたのおかげで、私はあるべき自分でいられるわ。シャロン、これは命令よ。私が戻るまで、けがの治療をしながらここで待ちなさい」

 シャロンは首を振った。

 了承しなくても、シャロンは私の言いつけを守る。自分の望みよりも私の望みを常に優先する彼女だから。

 私の腕を掴んだままのシャロンの指を丁寧に外すと、シャロンは堪えきれずに泣き叫んだ。

「やだぁ!」

 職務を奪われ、恥も外聞も無くして取り乱すシャロンを見ると涙がこみあげてきて、私は背を向けた。

「嫌!!こんなの違う!!こんな時に、背中を見送るために今まで修行してきたわけじゃない!お願いです、私に最期までやらせてください」

「ごめん……。ごめんね。あなたの願いを叶えられないことよりも、あなたを失う事の方が怖いの。いい主になれなくてごめんなさい」


 私はもっと普通の結婚が出来るものだと思っていた。

 バーレイウォール家は代々恋愛結婚だと聞いたし、尊敬し合える相手と思いやる心を育むことが出来るはずだと。

 政略結婚をするにしても、何かの役に立つのなら、自分の心に折り合いをつけて、限られた中から日々の幸せを見つけられたはずだ。

 しかし今の私は、暴力に屈し、狂人の妄想に付き合わされる敗者だ。

 私は今日の決断を後悔する日が来るかもしれない。けれどそれは、シャロンを失った時の後悔よりもはるかに小さいと確信している。

「目と耳をふさいでいてね。あなたさえ居てくれたら、私はこの先何があっても大丈夫」

 シャロンの腕が力を失ってダラリと投げ出されたのを見届けてから、ヴァンサンが意気揚々と開いた扉の向こうは、光を飲み込むブラックホールのごとき暗闇だった。

 いや、比喩表現ではない。暗いのではなく物理的に黒い。

 よく見るとそれは扉の向こうに至近距離で立ちはだかる大男であり、ずぶ濡れの髪と漆黒の服で闇に溶け込んでいる。

 目線は相手の胸辺り。ゼエゼエと呼吸で上下している肩を経由して視線を上げると、顔を覆う長い黒髪の隙間から光る金色の瞳が見下ろしていた。

 いきなりのホラー展開。

 まるでアレだ。バカンスに来てエロいことするカップルの前に現れる不死身の殺人鬼。

 生きていれば、こんな流れで化け物側が味方って状況に遭遇することもあるんだな。

 間違いなくクロードだ。

 これだから人生楽しくてやめられない。


 私には助けでも、ヴァンサンにとっては突如現れた幽霊か怪物だろう。

「うわあああああああっっ!!」

 動揺もあらわに絶叫し、私を盾にするように押しやって距離を取ろうとした。空いた両手で抜剣の体勢を取る。

 クロードは私を受け止めながら即座に前進、上から柄を押さえて抜けかかった刀身を鞘に押し戻した。そのまま、私をかばう腕とは反対側の肩で体当たりをすると、混乱中のヴァンサンは簡単に後ろに倒れた。しかし、クロードが掴んだままの剣がベルトから外れず、腰から宙づりのままのけぞる体勢になる。機を逃さずシャロンが滑り込んできて、下からぶら下がって首に圧力をかけた。

「ぐッ、おおお」

 短いうめき声を上げて、ヴァンサンは脱力する。シャロンが横に避けるのを待ってから、クロードが手を離すと、ヴァンサンの体は音を立てて床の上に落ちた。


「クロードォ~……」

「間に合ってよかった。お待たせして申し訳ありません」

 安堵で半べそになりながらクロードにしがみつくと、クロードも覆いかぶさるように私の背中を抱きしめた。

「ありがとう……、来てくれてありがとう……」

 今は苦しいぐらいのクロードの抱擁が安心する。

「でもどうやって?」

 ここは要人避難用で籠城向きの部屋だとシャロンが言っていた。小さな窓には鉄格子が細かく設置され、バルコニーもなく外は絶壁になっている。そこへ隠し通路から踏み込まれたので逃げ出せずに焦っていたのだ。

「通気口の穴を広げて侵入しました」

「ん?」

 それもどうやったの?質問に答えてもらったのに新たに同じ疑問が生まれるのバグじゃない?

「素手で」

 さらっと凄い事言ってるな。

「僕一人で先行して、ようやく辿り着いたところだったので、旗の目印や犬笛の合図がなければ危ないところでした」

「シャロンが時間を稼いでくれたのよ。犬笛もシャロンが居場所を知らせてくれたんだわ」

「一人でよく頑張ったね、シャロン。姫様が無事なのはシャロンのおかげだよ」

 そのシャロンはと言うと、自分がやられたのと同じようにヴァンサンの右手を踏みにじっている所だった。

「こいつは姫様を殴ろうとしたばかりか、痛めつけて髪を引きちぎりました。千切れた髪の本数分だけ殺します」

「死んだの?」

「いいえ、まだ気絶しているだけです。ご下命があればすぐにでも」

「ええと、じゃあとりあえず縛って拘束しておきましょう」

「それよりも足の骨を折ることをおすすめします。怪我人がいれば治療に手を割かれますから殺すよりも足止めになります」

「死んでいても足止めになりますよ!こいつは腐っても王族ですから、今を逃せば殺す機会を逃すかもしれません!」

「あんまりシャロンに人を殺してほしくない……」

「ではやはり膝の骨を砕くのが最善です。直っても以前のとおりには動けなくなります」

「痛みで目を覚まさないかしら?」

「永遠に眠らせるのが一番手っ取り早いです」

 絶対に殺したいシャロンと絶対に足を折りたいクロードの負けられない不毛な戦いだ。


 その時、廊下から繋がる鋼鉄の扉が外からドンドンと叩かれた。

「王弟殿下!ご無事ですか!?今の悲鳴は何事です!」

 ヴァンサンがクロードを見て絶叫した時に、外にも異変が伝わったらしい。

「扉が開きません。返事をしてください!」

 扉にはすでに閂がかかっていて簡単に破られることはない。しかし留まるべきか逃げるべきか。窮地を脱した後、同じ問題が再び私の前に立ちはだかった。


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