私の方が先に好きだったのに
シャロンが念入りに上からかけたシーツで、もともと暗かった私の視界は完全に閉ざされた。次にシャロンが迎えに来て声を掛けてくれるまで、ここでひたすらじっと待つ。
お腹に抱えたカイロが温かくて、そんな場合ではないと思いつつも、ついウトウトとしてしまう。気が抜けているつもりはないのだが、おそらく私はもう体力の限界なのだろう。その辺りも見越して、シャロンは私を連れまわさず、隠して休ませる選択をしたのだ。
鍛え方が違うとはいえ、シャロンだってとっくに疲労困憊のはずだ。それでも、俯くことも投げ出すこともなく、陰らず、曇らず、前を見据える菫色の瞳を想うと静かに涙が零れた。
内面の強さがシャロンの肌や仕草から溢れている。
逆境でも、泥の中でも、真なる美しさが損なわれることはない。
彼女の献身にどうやって報いればいいだろう。
あの雲間から差し込む光のような眼差しが、いつか誰かの物になってしまうのが寂しい。
けれど私は、シャロンの幸せのためならきっと何でもできる。
「……姫様……姫様」
驚かせないようにそっと呼ぶシャロンの声で、私は微睡みから現実に戻ってきた。
「おかえりなさい、シャロン。無事でよかった。今時間はどれくらい?」
暗闇の中でじっとしていた上に、意識も朦朧としていて時間の感覚が麻痺している。
「30分ほど経ったところです。ここからは慎重に移動します」
シャロンは私の手を引いて、洗濯カートの中から引っ張り出した。それからどこからか、せしめてきたらしい外套を私の肩にかける。フード付きの暗色で、すっぽり被れば白く光る私の髪も目立たない。
「ありがとう。暖かいわ」
私たちはより一層闇に溶け込んだ状態で、部屋に入ってきた時と同じように手を繋いで、また廊下を移動し始めた。
シャロンは早歩きぐらいのスピードで、城の奥へ進んだ。私には、もう走る体力が残っていないと判断しての事だろう。
今日は朝から張り込みをして、午後はご機嫌伺いの訪問からの悩み相談、とんぼ返りして再度の張り込み。それだけでも泥のように眠れるほど疲れていたのに、とどめの誘拐騒動で私の限界はとっくに超えている。
朝の無意味な張り込みを止めていれば少しはマシだった。いや、そもそも今日出かけていなければ誘拐されなかった。私の警護は厳重かつ、何重にも有事の対応策が張られているはずなのだ。
私の不運というべきか、誘拐犯の幸運というべきか、たまたま決行したのが今日だったのだとしたら、とんでもない偶然の積み重ねだ。それとも今日のような隙を長らくずっと狙っていたのだろうか。これほどの砦を占有できるくらい、富も権力も持つ人物が、執念を燃やして、いったい私に何の用があるのか。
見当もつかない。交渉の材料にという線も今は望み薄のような気がしてくる。疲れ果てた私の頭でもすぐに思いつくのは、怨恨くらいのもの。そこに整合性のある理屈は必要ない。
思い至った考えに、私はぞっと身をすくませた。
用があるなら傷つけないはずだなんて、考えが甘かった。ただ、首謀者がそこまで本気なら、クロードを逃した判断は正しかった。今はそう信じよう。
廊下を進んだ先の階段から一階へ。そこからすぐ近くに、中庭と渡り廊下へ出る扉があった。
ここまで誰にも会わずに逃げてこられた。扉付近にも人の気配はない。
私たちは油断せず慎重に、音を立てないように扉を開けて外に出た。
扉の向こうから忍び寄るように、一段と冷たい風がひやりと頬を撫でる。
渡り廊下を挟んで、右側は低木と花壇中心の中庭だ。そして左側は原生林に近い形で背の高い木々が立ち並ぶ散歩道になっている。渡り廊下の中央辺りから、優美な曲線を描く石畳の散歩道が用意されていたが、悠長にそんなものをなぞっている場合ではない。
「こちらへ」
シャロンの先導で渡り廊下の腰壁を乗り越え、散歩道をショートカットして城壁を目指し外庭の奥へと進んだ。
ところが、ほんの少し進んだところで聞きなれているはずなのに違和感のある音が耳に飛び込んできた。そして大粒の雫の飛沫が、私の髪と肌に当たって弾ける。一瞬ののち、頭上から水滴が降り注いだ。
「きゃあ!な、なに?」
水滴が外套の上から断続的に私を打ち据える。
「雨……?」
雨が降りだした。
しかも細かな霧雨ではなく、嵐のような大雨だ。城壁や木の葉を打ちつける音から、それが大きく重い水滴であることがわかる。
「そんな……」
今日はずっといい天気で、王都の空気はとても乾燥していて月が綺麗だった。
車で二時間も移動すれば、天気が変わることもあるだろうが、今の今まで晴れていたというのに。
なんという間の悪さだ。
「いえ……これは、雨ではありません」
「雨じゃない?……ってどういうこと?」
愕然としている私よりもさらに、シャロンの表情には悲壮感が漂っていた。
「城の消火設備で水を撒いています。見張りの兵が脱走に気付いたようです」
「捜索範囲を絞るために、外へ逃げられないようにしたいのね」
「はい。おそらく見張りと捜索の人員が十分ではないのでしょう。案外最初に見た兵士の数が、一部じゃなく全部だったのかも」
「じゃあこのまま行きましょう。人が少ないなら逃げ切れる。水で足止めしているつもりならチャンスよ」
幸い、シャロンが探してきた外套には細かな起毛があり撥水効果がある。
しかし、城壁の方面へ進もうとした私を、シャロンは引き留めた。
「無謀です。引き返しましょう」
シャロンは当然賛同してくれると思っていた。
「どうして?それじゃ誘拐犯の思うつぼになっちゃう」
「状況を確認もせず、この冬の寒空に水を撒くなんて正気じゃありません。奴らは姫様がどうなろうと構わないと思っているんですよ」
「尚更逃げなきゃ。無理を押してでも」
「ここを通り過ぎても、消火設備は城壁の上にもあるのが普通です。この状況では、救助がくるまで屋外で持ちこたえられません。衣類が濡れて体を冷やしたら……」
シャロンはここで言いにくそうに言葉を切った。暗がりの中で、わずかな光を集めて瞬く瞳は、悔しさと焦りと怒りが滲んでいる。
「危険です」
本当は危険という言葉では済まないだろうに、私を怖がらせないように言葉を選んだ。
撥水性の外套が降り注ぐ水滴を弾いても、体に当たる水の冷たさまで防いでくれはしない。体温を奪われ、シャロンの素手は震えを抑えられずにいる。手袋をして完全防備の私も歯の根が合わないほどだ。
私は言葉が続かなかった。
本当は今すぐここから逃げ出したい、もう嫌だ家に帰りたいと言ってしまいたかった。
けれど、私が投げ出せば、シャロンが一人で抱え込むだけだということは分かっていた。
「追手の数が少ないので隠れてやり過ごすことが出来ます。戻りましょう」
シャロンは何も諦めていない。最善を尽くすのはどちらか一人ではなく、二人両方でなければならない。
私たちは元来た道を戻り、今度は3階の一室に入った。
入ってすぐに、シャロンは鋼鉄製の扉に閂をかけた。最初に入った部屋よりも、扉が頑丈で室内も広い。暗くて詳細は分からないが、構造や様相も随分違う。VIPルームなのだろうか。あるいは砦時代の名残かもしれない。
シャロンが探索中に事前案の籠城部屋を見つけておいてくれて助かった。
私は思い通りにいかない悔しさともどかしさで冷静ではなかったが、前向きな発言に努めた。
「ここなら見つかったとしても時間稼ぎが出来そうね」
今私に出来る事は諦めないことぐらいだから。
外套の撥水加工のおかげで衣類はほとんど濡れなかったが、冷え切った体はすぐには元に戻らない。
私たちは外套とコートを脱ぎ、2人一緒に身を寄せ合って部屋にあった毛布に包まった。お互いの体温で暖を取るしかなかった。
飢えや寒さ、根源的な苦痛は心身に堪える。
私はシャロンにしがみついて、体の震えを少しでも止めようと腕に力を込めた。
気を張っていないと、思わず弱音が漏れてしまいそうだ。せめてこれ以上シャロンの負担になりたくない。辛い時こそ、隣に居て恥じない自分でありたい。
シャロンは震えが止まらない私の背中をごしごしと擦った。
「お寒いでしょうが、今暖炉をつけても良いとは決断できません。せめて体温を作るための食料があればよかったのですが……。申し訳……」
「謝らないで。私も謝らない。悪いのは誘拐犯の方よ。私たちは最善を尽くしているって信じたい。そうよね?」
シャロンも私に回した腕に力を込めた。
「想定外の状況が続いています。兵士の様子やなりふり構わないやり口を見ても、クロードさんが捕まっていたらどうなっていたかわかりません。姫様の判断は正しいです」
「……うん……。ついてきてくれてありがとう、シャロン」
「私は一振りの剣です。姫様が銘を与えてくださって、名のある道具になりました」
「あなたは私の友達よ。何が出来なくても関係ない。傍に居てくれるだけでいいの。だから助けてくれてすごく感謝してるし、何もできない自分が情けなくて……」
「私も姫様と同じです。お側に居られる自分が誇らしい。その誇りが私を支えてくれます。姫様の期待と信頼で、私に勇気を与えてください。そうすれば私は何でもできます」
私たちの間に在るのは、対等な友情とは言えないかもしれない。けれど相手のために何でもできるとお互いに信じているなら、きっとこの関係性が私たちの正解であり、名前の付けられない親愛の情なのだ。
疲弊した私たちには、もう具体的な方策もそれを考え出す気力も残っていない。まずはとにかく体温を上げることが最優先だ。
しかし休息らしい休息を取る暇もなく、室内の壁のどこかから、ごとんと大きな音がした。
身を固くして音がした方を振り返ると、壁の一部がぐるりと裏返り、ランプの光が差し込んだ。そして灯りを持った人物が部屋に足を踏み入れる。
隠し扉だ。私がこれまでの人生で、あらゆる場所で探し続けた隠し扉と秘密の通路が、今最悪の形で私の目の前に!
隠し扉を使う方じゃなくて使われる方!
なんで?絶対私の方が隠し扉のこと好きなのに。
部屋に入ってきた人物が、ランプを掲げて私たちの姿を見つけ言葉を発した。
「なかなか手こずらせてくれるじゃないか。若いのも考え物だな」
大人の男の声だ。ランプが逆光になって暗闇に慣れた私の目を刺すため、相手の姿が良く見えない。
「だ、だれ!」
隠し扉から次々人が入ってきて、私たちは取り囲まれた。灯りの数が増え部屋が明るくなる。
「……?」
壁の中から現れ、目の前に立ちはだかっているのは、見覚えのない変なおじさんだ。
いや本当に誰?こういう時って、普通は知っている人が出てくるモノなんじゃないの?伏線を回収しつつ、『あなたが黒幕だったのね』みたいな展開になるんじゃないの?
ここにきて全くの新キャラなんて卑怯では?
「君の夫になる者だ。我が未来の花嫁よ!」
カメ更新で大変恐縮です。
主人公に元気がなくて、今一番つらいところを走っております。
何卒気長にお付き合いください。




