過ぎたるはスメル爆弾の如し
バーレイウォール邸は王都の北東。現在地が北西です。逆になっていました。
石畳の上を転がる振動を伝えながら、車は街を走っていく。
自分の車ではないからなのか、乗り心地がいつもと違うのは、不快とも言えないまでも不思議な感覚だ。
この短い時間で、リリィ・アン、モニカ、カーマイン。ヴィオレッタまでもが行方不明になった。関連しているのか?それぞれ別なのか?これらがどんなイベントか、私には判らない。
少なくともリリィ・アンは自分が誘拐されることを予見していた。予備知識を持った転生者であるリリィ・アンが準備をしていたのであれば、それほど心配は要らないだろう。予定外のモニカとカーマインをフォローできるように、急ぎ探し出して応援を送れば危険は少ないはずだ。
問題はヴィオレッタである。
駆け落ちであればまだいい。自分たちで行動していて、身に危険が及んでいるわけではない。正直なところ、ヴィオレッタたちが衝動的に行動して、何の痕跡もなく逃げおおせるとは思っていないので、本格的に追えば早晩見つけ出すことができる。
しかし誘拐であれば、事は一刻を争う。ただの営利目的から大小様々な陰謀まで、高貴な彼女をかどわかす理由は、私の予想の範疇を超えている。
さらに、ヴィオレッタの調査は任せられる人員が少ない。今回の市井体験は、ケルン公爵家に許可を取ってあるものの、警備やその後の駆け落ち本番への観点から詳細情報を知っているのはごく一部なのである。
今回主導で手配してくれたイリアスは、妹のカーマインがリリィ・アンの誘拐に巻き込まれたとあって、そちらにかかりきりになる。
ケンドリックはもちろん力を貸してくれるだろうが、頭が良く情報通の彼は、他からも頼られて忙しくなるに決まっている。
そうなると、ヴィオレッタの件は私自身が動いて解決するしかない。自分の蒔いた種で不服はないが、この緊急事態に私の外出が許されるだろうか?下手に戻って説得に時間をかけるよりも、このまま現場の状況を確認しに行った方が。いや、報告を怠るのは愚か者のすることだ。どう動くのが一番良いか……。
ぐるぐると考えあぐねている途中で、隣からクロードの大きなため息が聞こえて、思考が途切れた。クロードは息苦しそうに襟元を掴んで引っ張っている。
「クロード?気分が悪い?」
「いいえ、反対です。臭いが薄れて涙が止まりました。呼吸が楽になり、視界も回復しています。姫様のおかげです」
何でもとりあえず私に感謝して褒め讃えるクロードの癖は、ちょっとどうかと思う。現場から離れたら臭いが薄れるのは当たり前だし。私関係ないし。
「一体何だったの。リリィ・アン様が毒ではないと言っていたけど、本当にただの悪臭?」
「我々トリリオンの一族は嗅覚が鋭いのです。嘘を見抜き、感情を読み取る読心術も、この特性の恩恵です」
そうなんだ。山岳出身の一族に、寒さに強いだけでなく、そんな特技があったとは。嗅覚の鋭さは、街での哨戒にも優位性があるのだろうか。今回ついてきた護衛は、トリリオン分家筋の者たちばかりだ。それでクロードたちが崩れ落ちた匂い袋を誘拐犯に投げつけても効果がなかったのである。
「気分が悪くなるほどの刺激で、普段頼りにしている感覚が麻痺したら混乱してしまうわね。たとえいい香りでも、強すぎると悪臭になると聞いたことがあるわ。私にとっては、ちょっとスパイシーなだけのポプリだったけれど……何の臭いだったのかしら?」
あの程度の臭いで悶絶となると、常人の数倍、ともすると数十倍以上も鼻が利くのではないか。
クロードは心底嫌そうに、眉毛を情けなくハの字して答えた。
「なんと言いますか……、成熟した同族の男の臭いと申しますか……」
「成熟ねえ……。バーナードみたいな?」
「うぇっぷ……!」
バーナードは我が家の主席執事で、クロードの父親である。我が家では、父の側近こそが権力の中枢であり、バーレイウォールという巨大な組織の、実質NO2だ。これがまた、優しくて物腰柔らかでありながら、ちょっと危険な香りもする美貌のイケオジで、男女問わず、憧れを抱くような魅力を持っている。
バーナードはいつでもメッチャいい匂いがしそうだが、それでも加齢臭も多少はあるのかもしれない。仕方ない。彼だって生きているわけだから。
単語を耳にした瞬間、クロードが堪えきれずにえづいた。
「申し訳ありません、具体的なイメージが伴うと、あまりにダメージが大きいので、もうこの話は……」
「ごめんごめん。止めておきましょうね」
そう言いつつもクロードの顔色は、車内のわずかな灯りでも違いが判るほど良くなっており、ひとまずホッとした。
ひとつ片付いても、不安の種は次から次へと芽吹いてくる。
「今一番心配なのはヴィオレッタ様のことだわ。一刻も早く取り掛からなきゃいけないのに、人が足りるかしら。状況がどうなっているのか、私も様子を見に行きたいけれど、きっと足手まといになってしまうわよね」
走る車の中で、軽く拭っただけだったクロードの顔を、水筒の水で濡らしたハンカチでふき取りながら、不安な心情が思わず零れた。クロードは喉を撫でられている犬のような顔で顎を差し出している。私に体を預けて目を閉じたまま、口だけを開いた。
「ケルン公爵家からも捜索隊が結成されるでしょう。安否はともかく、人員について心配する必要はないと思いますが」
「そっか。じゃあ伝令を送るだけでいいのね。捜査協力する方向で交渉を任せられる人物を行かせるわ。フィリップを呼び戻してお願いしましょう」
「この車を手配した伝令は、ケルン公爵家の者ですよね?ヴィオレッタ様のお姿が見えないので、心当たりがないか確認するために、屋敷で居場所を聞いて姫様を追いかけてきたのでは?」
「えっ?……あ、そうね。言われてみればバーレイウォールの人間らしくなかったわ。違和感があったのは、きっとケルン公爵家の人だったからね。動揺して、状況がよく飲み込めていなかったみたい」
クロードはバチっと大きな目を見開いて、顔を拭っている私の手を掴んだ。
「待ってください。姫様は、あの伝令と顔見知りで信頼された訳ではないのですか?」
「いえ、全然知らない人だけれど……。向こうは私のことを知っているみたいだったから。それに、いつも怪しい人を警戒するクロードが何も言わなかったから、大丈夫だと思ったの」
私とクロードはお互いに驚いた顔で向かい合った。
大きな違和感が、足音を立ててすぐそこまでやってきて、私が気付いて振り返るのを待っている。
あら……?でも今クロードは鼻が利かないのよね。そしてクロードの嘘を見抜く読心術は鋭い嗅覚に因るもの。クロードが何も言わなかったのは、怪しくないからじゃなくて、何もわからなかったから……?
違和感の次は急に不安が襲ってきて、周囲の環境がやけに気になり始めた。
そういえばいつの間にか、硬い石の上を走る振動がなくなっている。
おかしい。ミドルタウンからバーレイウォール邸まで石畳が途切れる場所はないはずなのに。
「なにか……、ヘンよね……?」
シャロンが外を確かめようとして窓に取りついたが、羽目殺しになっていて開かなかった。車の扉も同様に、外から施錠されていて開かない。
「やられました。閉じ込められています」
ドクンドクンと心臓が脈打つ。嫌な予感で胸が締め付けられるように痛い。
「あの、でも、そういう仕様の車なのかもしれないわ」
まだそうと決まったわけではない。私は最大限ポジティブに考えようとしたが、クロードもシャロンもその意見には流されなかった。
「その場合は謝りましょう。シャロン、姫様を頼む」
シャロンは後ろから私を引き寄せて抱きかかえた。クロードは座席の両側に腕を付き、長い脚を折り畳んでから、一息に大砲のような蹴りを放った。
たった一撃で、接続部の金具が吹き飛んで扉が外れ、宙に浮いた後、風と共に後ろへ消えていく。
クロードが外れた扉から乗り出し、周囲を伺う。クロードの黒い髪が外に吸い込まれるようになびいた。
暗闇の中でも、私の目から見ても、そこがミドルタウンから我が家へ向かう途中の市街地でないことは一目瞭然であった。
車は石畳ではなく、郊外の土の上、防風林の中を走っていた。街灯の無い夜の郊外は、月明かりのみで暗く、風にざわめく木の葉の影から僅かに様子を感じ取れるが、見通しは利かない。クロードは外套と髪を強風になびかせながら、車の外に乗り出して風景を睨んだ。
「経過時間と周囲の様子から考えて、王都の北西郊外と思われます」
我が家は王都の東北東にあり、ミドルタウンから移動するなら全くの逆方向だ。
この車が家へ向かっていないと言うことは、屋敷へ連れて行くと言って私を車に乗せた伝令が嘘をついたと言う事だ。
今から振り返ってみると、親切そうに気遣っておきながら、強引な節もあった。秘密裏に計画していたヴィオレッタの件が話題に上がったので、つい信用してしまったが、違和感もあった。ヴィオレッタのことも、おそらく上手く話を合わせただけなのだろう。彼女が無事ならば、それだけが今の救いだ。
いつも警報機として機能するクロードが不調だったのに、車に乗り込んだのは、冷静な判断ではなかった。気が動転している時こそ、慎重に行動する必要があったのに。
私は騙されて護衛たちと引き離され、侍女と近侍と三人、連絡が付かない状態で孤立し、さらに見知らぬ場所へ予定外に連れ去られようとしている。
つまり、端的に言って誘拐されたのである。
リリィ・アン、巻き込まれたモニカとカーマインに続いて私まで誘拐!?
しかもさっきは見向きもされなかったから明らかに別件!!
誘拐の予定がダブルブッキングとか、そんなことある???
『誘拐を企んでいるあなたは冬至の日が大チャンス❤気になるあの子を攫っちゃおッ』
ってか?
ばかやろう!
たとえ犯罪者向けの占い雑誌にそう書かれていたとしても、そんなものを律儀に守る前に法律を守りなさい!
乗り出していたクロードが中に戻ってきた。
「扉が壊れた衝撃に驚いて車を止めるかと思いましたが、このまま強引に進むようです。幸い下は柔らかい土ですから、飛び降りて脱出しましょう」
「えっ、飛び降りる!?走っている車から!?」
「はい。どうせ出来ないと高を括っているのでしょうからチャンスです」
出来なくて普通だよ?フィリップもそんな感じのことをしていたけど、私には出来ないよ!あなたたちの身体能力が素晴らしいのは知っているし、フォローしてくれるつもりはあるのだろうけど、それでも無理だ。
「このまま敵の目的地まで付いていくよりも、早い段階で離脱した方が安全です。どうかご決断ください」
クロードは、渋る私を勇気づけるようにそっと両手を包んで、瞳を覗き込んできた。無理やり行動するよりも、時間をかけても私を説得した方が安全だと判断したからだろう。
クロードのヘーゼルアイは、長いまつげと前髪で普段あまり目立たないが、よく見ると黄味が強く、暗い場所では金色に輝いて見える。色の印象も手伝って、実は鋭い目つきだからこそ、彼は柔和な微笑みを心掛けているのだが、切迫した表情の今は、見る者の自由を奪うような威圧感があった。
「僕を信じてくださいませんか?」
「信じる」
私は反射で頷いた。怖い気持ちに変わりはなく、頭でも納得できていない。
それでもクロードを信じるか信じないかの二択なら、それは断然信じる方に全ベットなのよ。
クロードは私をぐわっと抱きかかえた。音がしないように注意を払ったいつもの動きではなく、急いでいることがわかる。
「シャロン、先に降りてフォローしてくれ。僕も続けて降りる」
「判りました」
「姫様、手足を小さく縮めてください。目を閉じて、奥歯を噛んで。行きますよ!息を止めて!」
私は言われたとおりにするだけで精一杯だった。
体に力を入れると同時に浮遊感に包まれ、その後小さな衝撃が断続的に続いて、やがて静かになった。
息を吐いて目を開くと、クロードは私を抱えて道に座り込んでいた。




