イニシャルV(ヴィ―)
息を詰めたせいで、時間が長く感じられた。ヴィオレッタは意を決して息を吸い、言葉を吐き出した。
「わたくしは怖いのです」
「そっ……!」
私はあなたが何を言い出すのかが怖いです!
「そんなの当たり前ですよ!遠い異国の地で、顔も知らない誰かと結婚するなんて怖いに決まっています!」
すぐには帰れない距離と立場、数少ない味方、慣れない環境でいちから新しい居場所を作るのは、難しいことだ。怖気づいても無理はない。どんなコミュニティに参加する時にも、最初の不安は付き物だが、国益を掛けた婚姻は、進学のように仲良しこよしをしにきた学友を相手にするのとは訳が違う。王宮は互いの利を賭けて争う戦場なのである。
「ありがとう、ローゼリカ様」
何がぁ!?お別れの挨拶みたいなのやめて!別になんもお礼言われるようなことはしてませんけど!?
「権勢にも栄華にも興味はありません。愛する人とただ静かに暮らせたらどんなにいいか」
うん。だからセバスチャンと一緒になれるようにお父上を説得する方向性でいいんだよね?プレッシャーかかるけど、一緒にがんばろ!
「けれど、楽なほうへ逃げてしまって本当に良いのでしょうか?」
「そっ……?」
……れはあの……。もしかしてマリッジブルー的なアレですか……?
逃げるっつってもフロラントに嫁ぎたくないから駆け落ちするんじゃなくて、始めからセバスチャンと結婚したかったんだから別にいいのでは。
具体的な選択肢が出てきたことで、決断に自信が持てなくなっちゃったのかしら。今が幸せ過ぎて怖い、的な?人生を左右する大きな別れ道だから、不安になるのもわかるわ。
「自分で選んだ道を、後悔ごと受け入れる覚悟に今も変わりはありません。どの道後悔するのなら、大切な人を巻き込まず、せめて美しいままの思い出を抱いて、家や国の役に立った方が自分を慰められます。何の実りも成果もない人生が、わたくしは一番恐ろしい」
「そ、」
そうはならんやろ……!!
急ハンドルで側頭部強打しちゃうわ!?有り得ないほどのヘアピンカーブ。峠を攻めすぎ!
え、なに?全てを諦めて、フロラント王室に輿入れしちゃうってこと……?
イリアスが言ってた、一番大切な思い出を、手垢のつかないまま残して置くってヤツ!
落ち着いて、私。落ち着き、よく考えて、状況を整理してみるの。
……。
…………。
良く考えてもやっぱりわからーん!!
鋼ならぬお豆腐メンタルで、人並みに思い悩むのが等身大ヒロインの魅力。とは言え斜め上の繊細さでまったく共感できないわ!?
なんで後悔前提なの?そこは後悔の無いよう運命を切り開くところでは?自分が相手も幸せにしてみせるくらいの気概が欲しいところ!たらればの想像は後悔に含まれますか?巻き込みじゃなくて両方当事者なんですけど!家の役に立つ方法って一種類しかないですか?役に立つの定義とは?そもそも家族は役に立ってほしいって思ってるの?自分を犠牲にすれば役に立つ自信があるんだね!?それなら犠牲にならなくても役に立つ方法を探してみてもいいんじゃないかしら!
……って。
無責任に早口で立て板に水のようにツッコめたらいいのにな~。
心の中ではとんでもない変顔で、怒涛のツッコミ10連ガチャを回してしまったが、現実の私の表情筋は大丈夫だっただろうか。
なんとかオブラートに包んだ指摘を……いや、気を読まないポジティブな正論は奮起する時に使う言葉で、不安に寄り添っているとは言えない。こんな時こそ寄り添わずして何が友達だ。ヴィオレッタの笑顔が好きならば、それを守る努力をしなければ。
「セバスチャンとは話し合われましたか」
「……」
小さな表情の変化も見逃すまいと私はヴィオレッタに向き直る。彼女は恥じ入るように視線を逸らして俯いた。
「そうするべきとは分かっています。無論、そうするべきだと……。セバスチャンが、一緒になろうと言ってくれれば、そちらに思い切ることができます。反対に、怖気づいたと正直に打ち明けられても諦めが付くでしょう。けれど、もう後戻りできないという義務感しか残っていなかったら、どうすればいいのでしょう。自分の答えがまとまらないまま、時間が過ぎてしまいます」
愛する者から拒絶されて傷つかない者はいない。しかしヴィオレッタは、傷つくことを恐れるというよりも、自分が取るに足らない存在だと怯えているようだ。
「あなたには、呆れた臆病者だと軽蔑されてしまうでしょうね。自分が不甲斐なくて、嫌になります」
「ヴィオレッタ様」
決して目を合わせようとしない彼女の緊張を少しでも和らげたくて、私は手を取って包み込んだ。その指先は冷たく強張っている。
「出来ないことを無理にでもする必要はありません。逃げてもいいし、得意な者を頼っていいのです。ヴィオレッタ様を頼ってきたものを助ける時、迷惑だとお考えでしたか?」
「いいえ。でもわたくしが手助けしたのは簡単なことだけですもの」
「そうです。簡単なことは人によって違います。だから助け合うことが出来るのです」
人によって得手不得手は違うから、自分が苦手なことを他人も苦手だと考えるのは早計だ。それぞれ得意なことを役割分担するために、人間はコミュニティを形成しているのだ。
「それから、私もよく『そうするべきだ』と言ったり思ったりしてしまいます。でも本当は、『するべき事』なんて、この世にほとんどありません。『したほうがいい』ことを強調しているだけなんです。家や国の『役に立つべき』ではなく、『役に立ちたい』とお望みなのはヴィオレッタ様ご自身なのですよ」
「するべきことなんてない、ですか。それは、とても寂しいですね」
本当の自由は孤独だ。私たちは、自分が気に入ったしがらみにだけ囚われたいのである。
「結果を受け入れる覚悟さえお持ちなら、何を選ばれてもヴィオレッタ様の自由です」
己の内側に問い質すため、ヴィオレッタは静かに目を閉じた。再び瞼を開いた時の、ブルーグレーの瞳の輝き!
ああ、このかたの理想を叶えたい。
「成すべきことを成せないことが何よりも怖いと思っていました。でも、全てが単なる自分の望みなら、出来なくても困るのは自分だけですね」
脱力して息を吐いたヴィオレッタの顔は、先ほどまでとはまた一風違う明るさを取り戻していた。
「ローゼリカ様、どうすれば良いと思いますか?」
「微力ながら、お手伝いいたします」
と、言ったは良いが、どうしたものだろう。
私にはクロードがついているので、セバスチャンの本音を聞きだすのは簡単だ。しかし、「ウチのクロードは読心技能を持つメンタリストなので、パパっと聞いてきます!」などと馬鹿正直に言うわけにはいかない。そんなものは社外秘だ。
近侍のよしみで上手く聞き出したことにしようか。私は短絡的だといつもケンドリックに怒られるけど大丈夫かな……。
それから、あまりに干渉し過ぎて、ヴィオレッタとセバスチャンを無理矢理くっつけるのもいただけない。交際くらいなら深く考えずにお試ししてみたらと思うが、結婚までは責任を負いきれない。こういうことは、飽くまでもなるようになるのが良いのだ。無理のある縁には歪みが生まれ、歪みのある関係は脆い。
セバスチャンがヴィオレッタを大切に想っていることに疑いはないけれど、2人して身を引くのが相手のためと考えていたら上手くはいかないだろう。すれ違いながらでもなんとかなるほど、駆け落ちは甘くない。
いっそのこと予備知識のあるリリィ・アンから、2人の行く末を聞いてみようか。でもシナリオの中でハッピーエンドだったからってなんだというの?エンディングは次のステージのスタートラインでもあり、20年30年先の未来まで保障してくれはしない。
私たちは生きていて、シナリオで切り取られた枠の外でも、笑ったり泣いたりし、理由があって行動している。
重要なのは個人の資質だ。ヴィオレッタは何を選んでも後悔するかもしれないと言うが、私の意見は正反対だ。むしろどんな道を選んでも幸福になるだろう。彼女には能力があり、引っ込み思案でも芯の強い人だ。
よし。
ようやく方針を定め、軽く両手を打ち鳴らした。
「まずは、今後について話し合ったほうがいいと、クロードからセバスチャンに伝えてもらいましょう」
ああでもないこうでもないと長考した挙句、地味で堅実な提案になってしまった。私の特技も切り札も、何も活かせていない。
仕方がない。一息に解決できる画期的な方法があるなら、それは難しい問題とは言えないのだから。じっくり腰を据えて話し合う事が最良にして最短の解決方法だ。
「これで少しは意思確認の話を切り出しやすくなると思います。セバスチャンが前向きに今後の計画について言及するようなら、案ずることはないでしょう」
あとでこっそりクロードに本当のところを確認してもいいからね。
「それで上手くいかない場合は改めて別の方法を考えます。あと一週間はこちらでお過ごしでしたよね。お戻りになる前に、必ず様子を伺いにまいります」
「わかりました。きっかけから糸口をつかんでみます」
「私に対するように、素直にお話になればきっと上手くいきます。今こそツンデレを封印する時です」
「ツンデレとはなんですか?」
「……」
あーあ、今日も一言多かった……。
他にしてあげられることもなく、当初の予定通り、ミドルタウンの広場に戻ることにした。 途中、車窓の景色が防風林に切り替わる。ここが市街地と郊外、石畳と土道路の境目であり、車は少し速度を落とした。
「クロード、フィリップに聞きたいことがあるの。今日中に話せるかしら」
「勿論です。今呼びましょう」
「いま?」
クロードはゆったりとした手つきで、しかし素早く車の窓を開けた。
そこから何か合図でも送るのかと思ったが、クロードは窓を開けた後は何事もなかったように元のように座り直して澄ましている。
「???」
疑問を言葉に乗せる前に、車の屋根にトンと軽く小動物でも乗ってきたような音がしたかと思うと、するりと足からフィリップが車内に侵入してきて、何食わぬ顔で向かいの席に座った。
「どぅわああぁぁッ……!び、びっくりした……!」
どどど、どういうこと?どういうこと!?走ってる車に乗り込んでくるって何!?
私は肝が潰れるほど驚いたが、シャロンもクロードも特に言いたいことはないようだ。またまともな感覚が多数決で負けてるわ……。時々あるけど慣れない……。
「ご用命をどうぞ」
こうなるとツッコミを入れても取り合ってもらえるとは思えず、気力が失せる。私はツッコミの全てを一枚のシーツにくるみ、ポイと意識の外に投げ捨てた。
どうにもツンデレの良さを理解できていないようで、ああでもないこうでもないと試行錯誤してみましたが、ヴィオレッタの造形が甘く申し訳ないかぎりです。ツンデレを愛す皆様には深くお詫び申し上げます。
もしよろしければツンデレの尊さについてご教示ください。




