粉骨砕身、罪である
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
例の連続殺人犯、捕まったらしいな。これから取り調べが始まる模様、ねえ。
お前はさ、どうして罪とされる行動をしてはいけないか、考えたことがあるか? 小さい頃から、親にいろいろとしつけられる過程で、様々な理由付けが成されたはずだ。
「壊したら、弁償しないといけないよ」とかの家計的な理由もあれば、いきなりぶっ叩かれて、「お前にやられた人は、同じかもっと痛いんだぞ」と身体的な理由で味わわされることがある。
それでいて、そいつは汚点として、生涯抱え続けることになる。
半紙に垂らした一滴の朱墨と同じでよ、たとえ事故、過失だとしても、消し去ることはできない。
俺もひとつ、「罪」に関して体験したことがある。聞いてみないか?
俺の地元では、罪というものに関して、「必ずバチが当たるもの」と考えられていた。いわゆる因果応報だ。
こいつは現世でなくとも、来世以降のどこかで必ず報いがやってくる。そのため、罪を犯したのならば、生きているうちに「あがない」をせよ、という考えだった。
いわば現世で重ねることは、来世への投資であり、借金でもあるわけだな。だから普段から善行を積み、罪科を負わないようにせよ……と言い聞かせられてきた。
まあ、これだけだったら、よくある教えなんだけどよ。俺の家では特に「平常通り」でいることにこだわりがあった。
自分の手を汚す悪行はもちろんのこと、たとえそれが善行のためであっても、身を削るほどの厳しい環境に、自分を落とすなというものが存在したんだ。
それは他人の手助けも同じ。献身の度合いが大きすぎて、自己犠牲の領域に入ったら、もはや罪だとな。
親いわく、「常に健全でなければ、しかるべき時に、しかるべき行動を取れない。生きるとはとても長いことであって、小さいことに全力で挑んだために、これから待ち受ける大事に力を出し切れないことなど、あってはならない。乾坤一擲の勝負は、行わないことが正しいのだ。自分らしくありたいのならな」とのこと。
当時の若き俺は、えらく反発したね。それは手抜きだって。
余力を残すというのは無礼なことだし、「限界は自分じゃ決められねえ!」って思っていたからな。
何を成すにも全力投球。獅子はウサギを狩るのにも、全力を出すんじゃ〜ということで、まるっきり手は抜かなかったね。ただ疲れた様子とかを見せると、「力を尽くし過ぎた」って親に説教されるから、元気にふるまう術ばかり鍛えたけれど。
幸い、一晩眠れば、体力は全回復したからな。若さに感謝していたよ。
そんな全力全開やせがまんに力を注いだせいで、力がついたのかもしれない。小学校の高学年にあがる頃、俺の足はクラスどころか、学年全体でも屈指の速さを持つようになっていた。
特に長距離では顕著だったかな。これまでの学年歴代記録を更新できるかどうか、というところまで来ていた。
この歴代記録は学年ごとに、昇降口に張り出されていて、タイムと更新した年度が書かれているんだが、俺が所属する学年のものは、ここ二十年ばかり破られていない。知る人には、ひそかに期待されていたもんよ。
俺にはペース配分なぞ考えていない。むしろペースなどというのは、良い記録を出すための妨げに過ぎないと思っていたんだ。
最初から最後まで、全力で走り抜ける。そのために必要な力をつける。できないのなら、自分の熱意と鍛え方が足りないだけ、という、ど根性精神だったさ。
そして、持久走の時間がやってくる。トラック5周の1キロコース。
毎回先生は朝礼台の上に、大型のデジタルスポーツタイマーを設置する。そのタイムが歴代記録を上回った瞬間、あれは俺が出したものに置き換えられるんだ。
目に見える勲章。それがヒーロー願望を抱く、年端もいかないがきんちょの胸を、どれだけ膨らませたかは想像に難くないだろう?
俺の走法は変わらない。最初から最後までの全力疾走だ。それだけの体力を、俺はつけてきたという自負があった。
俺は開始と同時に先頭へ躍り出ると、そのまま二位以下をぐんぐん引き離す。
俺にとっての相手は、もはや一緒に走るクラスのみんなではない。地面、風向き、それらを受けて削られる、俺自身のスピードとメンタルだ。
手本にすべき背中はない。他の人に合わせたら、記録更新はおぼつかない。
一人だ。あの昇降口の記録は、男女の別こそあれ、その学年の男で、足跡を刻めるのはただ一人。寂しくなるほどに走り抜けた、「孤」人だけ。
トラックを二周する時、俺はすでに、下位グループを周回遅れにしていた。彼らの辛そうな顔を見ないために、あえてしっかりと前へ向き直った。
足に痛みを覚え始めたが、方針は変わらない。前を走る周回遅れのグループを風よけにし、消耗を避けるなどは考えなかった。
ただただ、彼らを置き去りにするべく、かといって余計に走る距離を少なくするべく、彼らと触れ合わない、ぎりぎりのところをすり抜け続ける。
四週を過ぎるともなると、わき腹が痛くなってきたが、構わなかった。タイムを横目で見ると、3分に至るまであと30秒を切っている。
――もう少し。もう少しで名前を残せるんだ。
その一事で、俺はどうにか身体に鞭打って、前へと進み続けたよ。
結果として、俺の記録は一秒及ばなかった。
事情を知る人はため息を漏らして、ぶっ倒れた俺に対して慰めの言葉をかけたりもしてくれたが、俺は少しカチンと来たね。
悔しい気持ちは、俺自身が一番強い、と自負していたから。力及ばぬ連中に何を言われても、空虚な言葉にしか聞こえない。耳障りだ。
――次こそは、絶対に勝つ。
俺は周囲の言葉へ、適当に受け答えしながらも、次の機会に向けて思いをはせる。次回の体育は三日後だ。
息は整ったものの、学校から帰っても、体中が痛い。何かとうるさい親に悟られないよう、悟られないよう、と神経を張り詰めたせいもあるんだろう。
明かりを消して、布団に潜り込むや、手足の疲れがどっと出て、またたく間に意識が飛んでいったよ。
次に意識を取り戻したのは、たぶん夜中のことだ。
ゴリゴリ、ゴリゴリ……と、すぐ耳元で何かを「うす」で挽いているような音が聞こえてきたんだ。虫の羽音などとは違う、明らかな人工音。
なんだ、と思いながらも寝返りを打ちかけて、違和感を覚える。
俺はいつも、仰向けの姿勢から右向きに寝返りを打つのが常だ。自然、右腕を枕にして、頭の下敷きにする。
その右腕の感触が、なかった。
頭を乗せようと思っていた上腕部があるべき箇所には、敷布団のシーツが広がっているばかり。右腕はというと、痛みは感じないし、動かそうとしている感覚はあるんだが、実体や感触が伴わない、というところだ。
「何が?」と俺は目を開きかけた時、すっと誰かに頭を掴まれ、持ち上げられた。
両こめかみに、かすかな圧力。そこ以外に感触がないところを見ると、万力みたいなもので固定されているのかも知れなかった。
――目を開いたら、まずいかもしれない。
そう察した時には、感覚しかない右腕の先に、何かを差し込まれたんだ。
ビリリと、静電気に近い感覚が一瞬だけ走り、俺は反射的に身体が跳ねちまったよ。
加えて、誰かの手が俺の右腕を包むようにして、さすり出したんだ。様子を確かめているという感じだった。
五本指ではあったが、やけに冷えていて、弾力もあったからゴムの手袋でもしていたのかも知れない。
やがて、俺は頭の拘束を解かれ、布団に投げ出される。
右腕は、先ほどまでの感覚の喪失がウソのように、指先までしっかりと指示が伝わった。寝る前までのだるさも、ぜんぜん残っていない。
ややあって、ベランダに面した部屋の窓を開ける音。想像以上に冷たい風が、さっと肌をなでていき、俺は思わずそっと薄目を開いちまった。
明かりがなくて影だけ見えたが、それは俺よりもずっと大きい、大人のような影だった。
こちらに向けた背中には、×の字に交差させた棒状のものを二本。両手にもそれぞれ一本ずつ、太さは違うが、やはり棒のようなものを握っている。
人影がベランダに出て窓を閉め、眼下の庭へと飛び降りていくまで、ほんの数秒。だが、その間にのぞいた月の光がさらしたものは、あまりに強烈過ぎた。
あいつが×の字に背負っていたのは、はだしのままの両足で、手にしていたのは、肩から先の両腕だったんだ。
俺はしばらく動けなかった。下手をすると、あいつが戻ってきそうな気がして。
結局、うとうとしながら夜を明かした俺。改めて身体を確認すると、両手両足はしっかりとついていた。
疲れは、まったく残っていない――いや、もとから存在しないのでは? とも思ったよ。あの夜の訪問者を見たらね。
どうにも信じられない事態で、朝ご飯を食べる時に、親へ遠回しに話したんだが、冷ややかな目で見られて、告げられたよ。「力を入れ過ぎたバチが当たった」ってね。
それから俺は、記録に対して関心を持てなくなってしまったよ。なんだか、むなしくなってしまってな。
この手、この足、この身体……持って生まれたものは、どれだけ残っているのか。
そんな「自分らしさ」失ってしまった自分に、どれだけの価値があるのか、とね。