第九話 漁色家は漁色する
既婚。本当に美咲は手の届かない場所に行ってしまったのだ。仕方ないと思うしかないではないか。多聞は自分に言い聞かせる。
秋の長雨に台風。この町は泥の町本領発揮となる。泥のにおいがすると雨が近いサインだ。グラウンドは常にぬかるみ、道路はあっという間に冠水してしまう。
あやの気持ちが落ち着いたころを見計らい、一度会った。もう出会った頃の、未来を信じていたあやではない。無口になった多聞を見て、あやは不安そうに
「多聞君、最近喋らないよね?」
「そうかな?」
「好きな人、出来ちゃった?」
「いや、それはない」
多聞はあやの目を見てきっぱりと答えた。
「あやのこと、支え続けられるか、自信がない」
「でも、多聞君がいなくなったら、私は一人になっちゃうのよ」
「一人?みんな一人だよ」
「私はどこにも居場所がないんだよ」
あやはそれだけ言うと目を赤く充血させて泣き出した。あやは家庭に恵まれない身の上だった。連れ子として母親の再婚相手と同居し、腹違いの弟にいつも気兼ねしていた。心を病んで、自傷したり引きこもったりすることは、自分にはりぼての青春を送らせた家族への復讐だった。少なくとも多聞にはそう見えた。
「私だって、こんな風になりたくなかったのに」
子どもみたいにあやは泣きじゃくる。多聞の胸は痛んだ。
「別に別れ話をしているんじゃない。ただ、ちょっと距離を置いていいかな?夜中にあやのところに駆けつけたりするのは、もう・・・」
「もう多聞君に迷惑はかけないよ。もう前みたいには戻れないの?」
「あやが元気になったら。だからちゃんとお医者さんの言うことを聞いて、治せよ」
多聞はあやを家まで送る。彼女が玄関に入るのを見て、多聞は立ち去った。
「週末そちらに戻ります。もし良かったらお酒でも飲みませんか」
美咲からのメールだ。この人、いったい何を考えているんだ?!あまりにも気軽すぎる美咲の誘いを多聞は驚きと呆れる気持ちで何度も読み返す。まぁいいや。お望みならば火遊びのお相手をしてやる。
「いいですよ、いつにしますか」
多聞も簡単すぎるメールを返す。
霧雨が降る夕方に二人は待ち合わせた。肌寒い夜で、美咲は白いスカートと赤いカーディガンといういでたちで現れた。ヒールのある靴も赤かった。
「何か変わったね」
「そう?」
結婚したから?と言う問いを多聞は飲み込む。並んで歩くと、美咲の体からデパートの化粧品売り場のような匂いが微かにする。それを多聞が指摘すると美咲は恥ずかしそうに笑った。
乾杯の後、何に対して乾杯をしてよいのかわからない二人は黙ってしまう。
「指輪はしていないんだね」
黙っていることが出来ずに多聞は聞いた。
「指輪?」
「結婚指輪」
「あら、知っていたの?」
「フェイスブックのステイタスが既婚になっていた」
「年貢の納め時よね」
「男みたいなことを言うなよ。結婚式は?」
「九月に済ませた。こじんまりとやったわ。でも多聞君とか大学の仲間もみんな呼べばよかった。私の人生の墓場行きをみんなで嘲笑って欲しかったわ」
美咲は身をかがめて升酒を啜る。
「墓場・・・・」
「墓場っていうか、監獄よね。もう逃げ出せない。多聞君は?無職の彼女とはうまく行っているの?」
最近会っていない、多聞は小さな声で言った。
「どうして?」
「ちょっと、問題を抱えた子なんだよね」
「問題?」
「手首を切っちゃうとか」
「あーそれは大問題ね。私たち素人には手に負えないわ。あ、日本酒のお代わり貰おうかな」
美咲の口調をあくまで軽い。しかし、多聞の方を改めて見据えると、
「同情だけで関わっていると、共倒れになるわよ」
「分っている」
「いったん多聞君は手を引いて親御さんにお任せしたら?」
「お任せできるような親御さんじゃないみたいなんだ」
「多聞君はまだ好きなの?」
「うーん。夜中に病院に付き添ったり、何だか疲れた・・・。ところで君、大丈夫なの?結婚しているのに男と会って」
「親に新婚旅行のお土産を渡しに行くと言って出てきた」
「悪い人だね。でも何でいつも俺に連絡くれるの?」
え、それは、と美咲はさっと頬を紅潮させて、
「私、多聞君と話していると元気になるの。多聞君はスーパースターなの」
私にとっては、と美咲は付け加える。
「俺は今じゃただの中学校の教師だよ」
「ただの先生なんかじゃないわよ」
美咲は軽く多聞の肩に触れる。更に赤いカーディガンを脱いで、ノースリーブから覗くほっそりとした腕と、それに不釣り合いな大ぶりな胸を見せつける。家庭がうまく行っていないと言っては女を漁色する中年男みたいだなと多聞は思う。
美咲はさらに不幸な家庭の話を続ける。
「彼とは帰国したら結婚するって約束はしていたのよ。私としては遠い未来の話だと思って安請け合いしていたけれど、Q国から石持て追われ、学会からも追放され、こんな形で帰国することになって、それで、結婚せざるを得なくなり・・・・」
「とにかく不幸そうだね」
「私だって女。結婚に夢を見ていたところもあるわ。実際結婚してみると、名前なんか呼ばれない、ねぇ聞いて。私、夫の実家に行くとおばさんって呼ばれるのよ。これが嫁。女に家と書いて嫁。家の付属品よ。箪笥とかテーブルと一緒。自分の感情を持つことも許されない。私の意見とか意思とか誰も聞いてくれないもんね。それ以前に私に意見とか意思があることすらみんな思いつかない」
美咲は唇を尖らせて、
「私がこんな泥の町に来てあなたと会っているのは、私の意思だもん」
美咲はふっと黙って頬杖をつき、多聞を見た。
「それともあれかね、結婚前はどんなに素敵な人でも、結婚したら妻をがみがみ叱り飛ばす嫌なおやじになるのかね」
「俺はそんなことをしないよ。俺はすべての女性を尊敬しているもん。いや、これホント。桐島さんのことを俺は尊敬しているよ」
俺はこんなに口がうまかったっけと多聞は思う。それでも美咲は嬉しそうな顔で笑った。
美咲が時計を気にしだしたので、多聞は外へと彼女を促した。雨はやんでいた。多聞が美咲の肩に手を回すと彼女は特に拒まなかった。駅に向かいつつ、生徒に見られるという失態を犯さぬよう人通りの少ない道を選んだ。多聞は美咲を抱き寄せる。美咲は多聞の顔を覗き込んだ。火遊びのお相手がお望みならば叶えてやってもいい。しかし多聞が知っている美咲は学問一路の真面目すぎる研究者だった。その彼女の結婚に汚い手垢を付けてしまってよいのだろうか。多聞がためらっていると美咲は言った。
「良いのよ。キスして」
多聞は美咲と唇を重ねた。美咲は傘を腕に掛けたまま、多聞にしがみついて来た。美咲の胸の柔らかさを多聞のみぞおち辺りに感じる。
「うちに来なよ」
多聞は言ったが、美咲は多聞の胸に顔をうずめたまま顔を横に振った。
「終電までには帰すから」
多聞は食い下がる。
「今日は駄目」
多聞は改めて美咲にキスすると、彼女を抱きしめて、
「分った」
とだけ言った。
駅につき、改札前で改めてキスしようとすると、美咲は
「駄目でしょう。この前みたいに生徒さんに見られたら大変」
「えっ、気づいていたの?」
「なんとなく。だからおいたは駄目よ。多聞先生」
美咲はするりと改札に入ってしまう。
「おやすみなさい。またね」
手を振る美咲。次はないかも知れないと多聞は思う。彼女は何もなかったかのように夫の元に帰るのだろう。胸のざわつきも、ましてや嫉妬もない。大人の遊びなのだから。自分こそが人妻相手に漁色する間男になり下がったように思った。