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泥の町  作者: 山口 にま
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第七話 ステータス変更

 「近くでご飯でも食べない?」

美咲から多聞にメールが届いたのは四月も下旬のことだった。そっけさなすぎる誘いの文面を多聞は何度も読み返す。二人は夕方の駅前で待ち合わせた。

 

 美咲は薄い色のワンピースを着て現れた。

 川沿いの小さなビストロに向かい合って座り、美咲は口を開いた。

「就職活動は終わったわ」

「おめでとう。どんな仕事なの?」

「商社」

「商社?」

多聞は聞き返す。

「研究職に就くのかと思っていたよ」

「なかなか良い口がないのよ。母校に戻って助手になる話もあったけれど、非正規だったから断っちゃった」

「非正規じゃ駄目なの?アメリカ帰りのエリートの彼氏がいるんでしょ?彼と結婚すればそんなにがつがつ働かなくっても・・・・」

「そういうのはちょっと」

美咲は眉を寄せて困った顔をし、少しだけ涙ぐんだ。

「うまく行ってないの?」

多聞は自分の声が弾まないように気をつける。

「諸事情あって」

ウエイターが冷えた白ワインのグラスを持って来た。

「とにかく乾杯しようよ。就職おめでとう」

二人はグラスを合わせる。冷たいワインが多聞の喉を通って行った。

美咲は今日はまだ笑顔を見せていない。

「なんだか元気がないね。新しいお仕事が不安なの?」

「それもあるけど・・・。でも元気出すね」

美咲はワインを飲み干した。

「十条のお店には顔を出しているの?」

「たまにね」

美咲は両手で自分のこめかみを押さえ、

「去年の年末からいろんなことがあって、あの頃はQ国に帰れないなんて思いもしなかったし、こんな風になっちゃったのが今でも信じられないのよ。私、Q国を甘く見ていた」

多聞は軽く自分の頭を掻いて言葉を探した。

「俺は外国で暮らしたことがないし、身近な人が政治犯になることなんてよく分らないんだけど、いろんなリスクがあるにせよ、こうするしかなかったんじゃないのかな。政府に盾突きたかったんでしょ?」

美咲は口をへの字に曲げて頷いた。

「君は君の人生の主人公って感じがするよ。うまく言えないけれど、クー先生との関係とか、君の性格とか、色々鑑みると、ああするのが自然な流れのように思えるんだ。だから後悔しないでよ。元気出してよ」

 美咲はテーブルの上で両手を重ねている。多聞はその手を取って励ましたかった。でもしてはいけないと思った。美咲の悩みは深く、平和な国で暮らす自分が分かったつもりになるのはあまりに美咲に無礼だからだ。


 美咲は窓の外をまた見た。すでに日が落ちて水面は見えない。

「私、そんなかっこいい人間じゃないよ」

「君がやったこと、クー先生に届けばいいね」

「そう・・・そうね」

美咲は目をしばたかせ、目じりを拭う。

「ごめんなさい、クー先生が可哀想で・・・」

美咲はしばらく泣き止まなかった。メニューを見たり、何も見えない窓の外を見たりで気を紛らわそうとしているらしかったが、涙はなかなか引っ込まなかった。多聞は手を伸ばして美咲の手に触れようとしたが、その瞬間、美咲は立ち上がり、謝りながら化粧室に行ってしまったのだ。

 

 多聞は宙に浮いたままの自分の手をテーブルの下に隠した。手持無沙汰で二杯目のワインを飲んでいると、美咲が腫れぼったい目で戻って来た。美咲はいつもの美咲になって笑顔を見せていた。

「ごめんね。もう大丈夫だから」

「せっかくのお祝いなんだから飲もうよ。とにかく仕事が決まって良かったよ」

そうね、と答えて美咲はワインのお代わりを頼んだ。

「商社と言っても別に今までの勉強が生かせないわけじゃないのよ。Q国との取引があるし、Q国に支店を出す話があって、そうなったら今度は就労ビザであそこに居座るわよ」

「君、まだ行く気かよ?!」

「ああ、行く気よ」

美咲は力強く頷いた。


 美咲の新しい勤務先のことなどを話しているうちに店はラストオーダーになった。どこかで飲みなおそうかと多聞が聞くと、美咲は首を横に振った。美咲の家は駅を突っ切った向こう側だ。

「今日は遅いからここでいいわ」

美咲は改札前で別れを告げる。

「危ないから送っていくよ」

「明るい道を通っていくから平気よ。明日早いんでしょう?」

多聞は美咲を遠くに感じる。このまま別れたら彼女が手の届かない場所に行ってしまいそうだ。酔った勢いで抱きしめるか。多聞が美咲の肩に手を掛けようか迷っていると、目の端に見慣れた顔が横切った。勤務先の生徒だった。もちろん多聞はすぐに手を引っ込める。

「いつも誘ってごめんね。じゃあまたね」

そう言うと美咲はさっさと改札を離れる。多聞は吸い込まれるように改札に入るしかなかった。


 多聞の不安に反して、美咲からのメールは頻繁に届いた。

「新しい会社は意外と楽ちん。定時に帰らせてもらっているもん。普通の新入社員を謳歌しているよ」

「Q国語はあんまり喋っていない。英語の電話があってびっくりした。向こうが早口で難しい単語ばかりを使うから何にも分らなかった。」

「初めての給料日。生まれて初めてまとまったお金をもらったよ。また十条で落としてくるか」

楽しいメールばかりで、多聞をほっとさせた。

「十条に行くならばお供させてよ」

多聞がそう返信すると、

「飲ませすぎないで下さいよ」

と美咲は返してきた。


 しかし、十条行はいつまでも実現しなかった。多聞が陸上部の指導に加え、担任までもってしまい、多忙を極めたからだ。

 時々多聞は駅で美咲を見かけたことがある。美咲はいつも急いでいる。明るい色のワンピースを着ていることが多かったが、その顔は疲れていた。

 七月、雨の土曜日に多聞は授業を終えた後、多聞は駅に向かった。市外で教員研修会があったからだ。同じく駅に向かってきたのは赤い傘をさした美咲だった。急いで傘を畳むと駆け足で改札をくぐった。多聞が美咲の名を呼ぶと、足を止めて多聞が来るのを待った。

「急いでいるならば先に行って」

「ううん、大丈夫よ」

美咲は止まったままだ。多聞も駆け足で美咲に近づく。美咲の髪にはゆるいウエーブがかかっていた。男に会いに行くのかなと多聞はふと思う。二人はちょうどホームに入って来た電車に乗った。

「もしかしてデート?」

多聞の問いに美咲は笑って否定する。

「多聞君は?」

「研修会。新学期になってから忙しくってたまらないよ」

「今度十条に行こうよ」

「夏休みになったら少しは余裕が出そうだから、その頃に行きたいな。あ、俺、ここで降りるわ」

多聞は立ち上がり、電車を降りる。電車の中の美咲は見えなくなるまで多聞に手を振った。


 八月の盆を過ぎた頃、美咲からメールが来た。

「来週の花火大会に行きたいです」

この町では夏の終わりに川沿いで花火大会がある。美咲はそのことを言っているのだろう。本音を言えば生徒に出くわす危険のない場所で美咲と会いたかったが、同じ市内に住んでいながら、わざわざ隅田川などの花火大会に遠征するのも変なので、多聞は承諾した。

 当日、多聞は帽子を目深にかぶって自転車で出かけた。駅で待ち合わせると目立つので、会場のはずれの藤棚の下で落ち合うことにした。

 美咲はデニムのショートパンツをはいて現れた。

「もしかして変装しているの?」

美咲は多聞に聞いた。多聞が頷くと、美咲は

「パッと見は多聞君だって分らないわよ」

と笑った。


 二人はシートを敷いて座り、美咲が持ってきた握り飯を食べたり、缶ビールを飲んで花火を見上げた。打ち上げ場所から若干離れているので人は少なかったが、音が激しく会話にはならなかった。なんで美咲は恋人と来ないのだろうと多聞は思う。そのことを口に出して聞いてみようかと思ったが、花火の音が激しく、とても会話にならなかった。


 花火の合間に美咲は言った。

「私、引っ越すの」

「どこに?」

「都内」

「通勤には便利なのかな?」

「そうね」

美咲は目の前に黒々と広がる水面を見た。

「だからこの町とはお別れするの」

 花火が連発で打ちあがった。美咲は歓声を上げる。空も水面も一気に明るくなる。

「もし良かったら引っ越しを手伝おうか?」

多聞の申し出に美咲は困ったような顔をして、

「荷物はスーツケース一つよ。もともと一時帰国のつもりで実家に身を寄せていたから。だから手伝って貰うほどではないの」

男と暮らすんだな、多聞は思う。その疑問は口に出さず、

「またこっちに帰ってきなよ」

「もちろん」

多聞は次の約束を求める勇気はなかった。以前のように美咲を家の近くまで送るとそのまま別れた。


 多聞は美咲からの連絡を待つ日々を持て余す。考えてみたら美咲と会うのはいつも彼女からの誘いからだった。多聞はどう美咲を誘い出せばいいのか分らなかった。大体恋人がいる女性を誘えなかった。美咲がどうしているか気になって、彼女のフェイスブックを開く。彼女の基本データでは勤務先は都内の商社になっていた。

 そしてステータスは既婚になっていた。




 



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