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泥の町  作者: 山口 にま
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第六話 国家転覆の策謀

 三月末の土曜日、暖かい午後。陸上部の指導で多聞は校庭に出ている。

「多聞君、多聞君」

呼ばれて振り返ると、フェンスの向こうに美咲がいるではないか。髪を一つにくくって紺色のトレーナーを着ていた。

「桐島さん?」

「久しぶり、多聞先生」

「先生はやめてよ。どうしたの?」

「犬の散歩」

確かに美咲は柴犬のような雑種犬を連れている。

「練習が終わったらお茶でも飲まない?何時に終わる?」

「五時半ごろ」

「じゃあ六時に国道沿いのファミレスで待っていていいかしら?」

「いいよ」

部員が多聞のそばに来て声を掛けようか迷っている。

「ごめんね仕事中に。じゃあまた」

美咲は犬を連れてフェンスから離れて行った。


 約束の時間に多聞が店に入ると、美咲はすでにハーブティーを飲んで待っていた。髪を下ろして白いブラウスに着替えている。

「いつ日本に戻ったの?」

テーブルにつきつつ多聞が聞いた。

「それがちょっと・・・・、何か頼む?お酒でもいいわよ」

「じゃあビール」

「私も」

二人は軽くグラスを合わせてからビールを飲む。

「時々君のフェイスブックを見ていた。最近更新していなかったね」

「フェイスブックをやっている気分じゃなくってね」

「忙しいの?」

「そうなのよ」

「いつ日本に帰って来ていたの?」

「それが・・・・。事情があってQ国に行けなくなっちゃったの」

「どうして?」

テーブルの向こうの美咲は眉根を寄せて今にも泣きだしそうな顔だ。

「ビザが下りないの。」

美咲はため息をついて顔を両手で覆う。

「大使館前でデモしたことと関係あるの?」

多聞の問いに美咲は顔から手を離した。

「なんでそんなことを言うの?」

美咲の目は怯えと驚きと警戒の色を見せる。

「Q国大使館前で怒鳴っていたのは桐島さんでしょ?ニュースで見てすぐに分ったよ」

あーそう来たか。美咲は頭を抱えつつ大仰にのけ反る。この人リアクションが激しいなと多聞は思う。

「何で?何で私だと分っちゃったの?」

美咲はぐいと身を乗り出して多聞の顔を覗き込む。

「何でだろう・・・?この顔にピンときたら桐島さんだった。」

「一応変装したつもりだったんだけどね」

「外国人の中で一人だけ日本人の女の人がいたので目立っていた。Q国関連のデモに出るのなんて桐島さん以外いないと思ったし、最後の怒鳴り声で確信した。自分では分らないかも知れないけれど君の声は通るんだよ」

美咲は深く息をつく。

「なーんだ。てっきりデモ参加者の中にスパイがいてQ国に通報されたのだと思っていたわ」 

「ビザが下りないのは制裁なの?」

多聞の問いかけに美咲は硬い表情で頷いた。

「一生入国できないわけではないと思うのよ。短期の観光ビザならばすぐに下りるわ。でも研究者ビザが下りないのよ。ビザがないと研究が続けられない」

「ビザが下りるまで待つの?」

「もう待てない。研究も中途半端だし、こんな状態では日本の大学にも就職できないの。そもそも日本の大学への就職は狭き門だから、どこかで気持ちを切り替えないと」

「切り替える?」

「一般企業に就職ってこと。実際に就職活動を始めている。苦戦しているけれどね」

「研究を辞めちゃうの?」

「いかんせんQ国に入れないからね。事実上の学会からの追放よ。もう一杯飲んでいい?」

どうぞ遠慮なく、多聞は美咲にメニューを渡した。

「一応教授の温情で院の卒業は出来た。でもね、Q国の穀物原種の研究で博士号を持っていたところで一体何の役に立つ?しかもこの年で社会経験一切なしよ。年を取ればとるほど普通の会社員にすらなれなくなる。だったらまだ三十歳になったばかりの今就職した方が条件が良い就職ができるのよ」

「まあいいんじゃない。働くのは大切だよ」

あやのような働けない恋人がいる多聞にはそうとしか言えない。

 

 二人が店を出たのは午後八時を過ぎたころだった。多聞は美咲を途中まで送っていった。土手沿いの桜は五分咲だった。桜は夜の闇の中で白く浮き上がって見えた。

「桜が咲いてる・・・・」

美咲は桜の木を見上げた。

「春が来たとか桜が咲いたとか、全然気が付かなかった」

「さっきも言ったけれど働くのは大切だと思うよ。誰だって学生が終わったら働くじゃん」

「そうね、そろそろ潮時ね」

しかし美咲の口調はとても吹っ切れたようには聞こえなかった。

「あのデモ、誰が考えたの?」

多聞は聞いた。

「日本にいるQ国人がクー先生のために何かしたいと言い出して、私が案を出した」

「マスコミまで来るなんてすごいね」

「テレビ局はあらかじめ私が呼んでおいた」

「やるね」

「今となっては私を悪の道に引きずり込んだあのQ国人が憎いわね」

とは言え美咲の口ぶりは笑いを含んでいる。

「そうだ、あなたも私たちの悪のアジトに行かない?」

「アジト?」

多聞は思わず聞き返す。

「十条でやっているQ国料理屋よ。そこの店でクー先生支援団体を立ち上げたの。デモに来たのもそこのお店の常連さんが殆どよ」

「良いよ。いつ?」

「来週の金曜はどうかしら」

 二人は金曜の夜に会うことに決めた。多聞はあやへの言い訳を考える。

「うちはこの先なの。ここからは一人で帰れるわ」

美咲は土手から降りる道を指さした。

「今日は話せて楽しかったわ」

「俺も」

二人は手を振って別れた。


 翌週の金曜日、美咲は待ち合わせ場所に黒いスーツでやって来た。

「今日も面接だったの」

美咲は言った。

 金曜日の夜らしく店は混んでいた。

「来たわよー」

美咲は店主と思しきQ国人に外国語で挨拶をしている。

「ミサキはQ国に帰ったと思ったよ」

と店主。

「ビザが下りないのよ」

「ミサキもなの?」

「どういうこと?」

「Q国からの留学生が国に帰れなくなっちゃった。入国を拒否されたって」

「それは悲惨だわ」

「ごめんねミサキ・・・・」

「タシのせいじゃないって。とりあえず研究はもういいの。日本の院は卒業できたし。今は仕事を探している。」

「今日は彼氏と一緒?」

「ううん、友達。何かおいしいものを食べさせてあげて」

「うちは羊肉を出すけれど、大丈夫?」

タシは多聞に聞いた。大丈夫だと多聞は答える。注文を取り終わってタシがテーブルから離れると、

「一応彼がクー氏救援協議会の会長なのよ」

と美咲が多聞に耳打ちした。

「君の立場は」

「影の参謀」


 二人は焼酎に似た地酒を飲んでしたたかに酔っぱらった。多聞はふと気になって、

「君は恋人がいるの?」

と聞いた。美咲は頷いた。

「えっ、いたの?」

「失礼ね。いるわよ」

「Q国の人?」

「ううん、日本人。向こうもずっと海外で研究していて、日本の研究所に就職した。多聞君は?」

「いるよ」

「どんな人?」

「どんなって、無職」

「何で働いていないの?」

「精神が弱いんだよね」

「だったら結婚してあげたら」

「それはちょっと・・・・。彼女はそれを望んでいるらしいけれど」

手首を切ったりオーバードーズをする子なんだ、という言葉を多聞は飲み込む。

「君は結婚しないの?」

「どうかしら。二年間ぐらいずっと長距離恋愛だったから、いざ一緒に暮らし始めてうまくいくかね。でも、ここらで結婚するしかなさそうね」

もう好きかどうか分らなくなっているんだよね、と美咲は付け加える。多聞は言葉が見つからずに黙っている。自分だってそうだ。あやへの気持ちは出会った頃と変わっている。今は薄氷を踏むような思いで一緒にいるだけだ。


 「そろそろ終電になるわ」

美咲は手首を裏返して時計を見る。二人は立ち上がった。

「また来るわね」

美咲はタシにそう言って店を出る。

「君、結構酒が強いね」

多聞は蒸留酒を何杯もロックで飲んだというのに早足で駅に向かう美咲に言った。

「酔っぱらった?」

美咲は聞いた。

「うん」

「肩を貸しましょうか?」

「結構です」

多聞は断った。

「Q国のお酒は強いけれど二日酔いにならないから大丈夫よ」

「あー良かった。明日は部活なんだ」

「学校の先生って大変ね」

「生徒は可愛いよ。君も理科の教師にでもなれば?」

「子どもは苦手なのよ」

「そんな感じがする」

「あなたってさっきから失礼よね。恋人がいなさそうだの子どもが嫌いそうだの」

「クリスマスに一人でコンビニのケーキを食べていたからさ」

「実際クリスマスは学会準備で忙しかったのよ。向こうはアメリカから帰って来ていなかったし」

「クリスマスも一緒にいない恋人か」

「ここ数年クリスマスも私の誕生日も一緒にいないわよ」

「それ、付き合っていないよ」

「いやいや付き合っているって。だってさ、学会から石もて追われて、無職で、三十過ぎで、更に恋人の一人もいないなんて悲しすぎるよ」

美咲の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「完全に男はアクセサリーだな」

「アクセサリー、大いに結構!」

きっぱりと言い切る美咲。変わった人だな、多聞は美咲の横顔をまじまじと見る。


 JRと私鉄を乗り継いで美咲の実家の駅についた。

「じゃあまた。国家転覆の策謀でもしましょう」

美咲は立ち上がり、大きく手を振って電車から降りて行った。

 一人になった多聞は携帯を確かめる。あやからの電話とメールの履歴がびっしりと画面の貼りついている。

「大学の友達とみんなで食事していた。明日は六時に新宿で。今日は飲みすぎたからこのまま寝ます。多聞」

嘘はついていないぞ。多聞は自分に言い訳をする。そのままあやにメッセージを送信すると、多聞は携帯をバッグに放り込んだ。


 土曜日に会うとあやは沈んでいた。明るい色に染めた髪の毛の根元だけが黒い。この様子では新しいバイトも探していないだろう。

 あやと一緒にいて笑いあったのはいつだろうか。多聞には思い出せない。頼んだビールがなかなか進まない多聞を見てあやが聞いた。

「昨日はずいぶん飲んだの?」

「焼酎みたいな酒をロックで飲んだ」

「焼酎みたいな?」

「エスニック料理屋に行ったんだ」

「女の人と?」

「いやいや、そんなんじゃないさ。大学の仲間。就職活動中の奴がいてそいつの話を聞きに行った」

「陸上部の人?」

「ちがう。学部の仲間」

多聞はあやから目をそらす。ふうん、とあやは興味なさそうに返事をした。


 数日後、真夜中にあやからメールが来た。

「ワンシート全部飲んじゃった。でも不思議と眠くならないんだよね」

例によって、薬物の過剰摂取を思わせるような文面だ。多聞はもう返事をする気にはなれなかった。





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